読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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軍事境界線が設けられた後,両陣営は警備のためにこの境界線の植生を焼き払い,相互に大型スピーカーを設置して政治宣伝や音楽を大音響で流した。とても野生動物が生息できる環境ではなかった。
しかし,南北軍事実務者協議で野焼きや拡声機の使用中止が合意された結果,鉄条網や地雷で守られた無人の軍事境界線では過去20年間,草原や森林が目に見えて戻り野生動物も増えてきた。
韓国政府環境部の報告(2010年)によれば,森林は境界線の78.3%を占めるまでに回復した。森林以外にも,湿地と河川が1.2%,牧草地が19.1%,遊休農地が1.3%を占め,多様な自然は動植物にとっては天国になった。
境界線に生息する動植物は2716種類にもおよび,狭い地域ながら東アジア有数の生物多様性の宝庫になった。67種の絶滅危惧種および保護対象種も確認されている。内訳は,哺乳類52種(韓国全体の52%),鳥類201種(51%),淡水魚類106種(12%),両性・爬虫類29種(71%),植物1597種(34%)など。今や韓国でもっとも豊かな生物多様性を誇る地域になった。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 255-256
これをケニア北部の乾燥地帯で実証することになった。地元民が燃料にするために木を持ち去り,家畜が植生を食い尽くした荒涼とした地域である。ここに,10メートル四方の3つの区画を用意した。
第1の区画は,4ヵ所に杭を打っただけで何もしない。第2の区画は,この付近の代表的な植林樹種であるユーカリやニームの苗木を植えた。第3の区画は,鉄条網で囲って人と家畜が入れないようにした。そして,地元のNGOの協力で2年間観察した。第1区画は何の変化もなかった。第2区画は村人や家畜が入り込んで,あっという間に苗木が消えて元の木阿弥になった。
ところが,鉄条網で囲っただけの第3の区画には,一面に草や木が戻ってきて緑の野に変わった。それまでこの一帯では絶滅したと信じられていた野生のオリーブの実生までが現れた。改めて,人と家畜がどれだけ自然を圧迫しているのかを思い知らされた。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 251-252
1937年から大統領のよびかけで,大平原各地に大規模な防風林を植林する運動も開始された。1935~41年には,土壌侵食を止めるために,日本から7300万のクズの種子が運ばれて播かれた。秋の七草の一つにも数えられるツル性の植物で,地面を這うことから侵食防止には最適とされた。ただ,その後野生化して猛烈な繁殖力で南部諸州に広がり,現在ではいたるところを覆い,高速道路にツルが這い出して車のスリップ事故を誘発し,「害草」として持て余しものになっている。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 55-56
翌1931年は中西部から大平原南部の農牧地で局所的な干ばつに見舞われ,「黒いブリザード(吹雪)」とよばれる砂塵が舞った。1932年は,しだいに砂嵐の発生回数が増えて,全国で14回が記録された。
1933年には砂嵐は38回を数え,さらに干ばつの被害は拡大した。この年ローズベルト大統領はニューディール政策を発表して,深刻の度を加える大恐慌と大干ばつの対策に手をつけた。労働史上最大規模の農業労働者のストを抑えるために,農業牧畜への緊急融資,価格維持のための家畜の大量処分,余剰生産物の貧困者への無償配布などの政策を矢継ぎ早に打ち出した。
1934年に入ると,干ばつは27州,全米の75%の地域に拡大した。5月には,モンタナ州で発生した砂嵐が,東西2400キロ,南北1500キロにもおよび,36時間もつづいて推定3億トンの砂塵を巻き上げた。
石弘之・石紀美子 (2013). 鉄条網の歴史:自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明 洋泉社 pp. 49-50
世界中の作物をすべて合計すると,2005年の単位面積あたりの生産量は1968年の2倍になっている。この集約化でかなりの規模の土地が節約されている。経済学者のインドゥル・ゴクラニが計算した驚異的な統計を検討してみよう。1961年の平均収穫高が1998年にもまだそのままだったら,60億の人口に食糧を供給するためには,32億ヘクタールを耕作する必要があるが,実際に1998年に耕作されていたのは15億ヘクタールだった。その差は南アメリカからチリを除いた面積に等しい。しかも32億ヘクタールというのは,雨林や湿地や半砂漠を新たに開墾した土地でも,同じレベルの収穫高が上がるという,楽観的な前提に立っての話だ。したがって収穫高が増えていなければ,実際よりもはるかに大規模に,雨林を焼き払い,砂漠に灌漑を施し,沼地を干拓し,干潟を埋め立て,牧草地を耕すことになっていたわけだ。別の言い方をすれば,今日の人びとが耕作している(耕すか,植え付けるか,牧草地にする)土地は,地球の陸地の38パーセントにすぎないが,1961年の収穫高のままであれば,今日の人口に食糧を供給するためには,82パーセントを耕作しなくてはならない。集約化によって地球の44パーセントが未開のまま守られているのだ。環境保護の観点から考えると,集約化はこれまでで最高の出来事である。現在,農民が都市へ向かったあとに再び生長した「二次」熱帯雨林が8億ヘクタール以上あり,すでに一次林とほぼ同じくらい生物多様性が豊かになっている。その発端は集約農業と都市化だ。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.227-228
従来の通念では,余剰物を蓄えることによって資本を成立させたのは農業であり,蓄えられた余剰物が交易に使われるようになったとされている。農業が始まる前は,余りものを貯蓄できる人はいなかった。この説には真実も含まれているが,話があべこべになっている部分がある。交易があったからこそ農業が可能だったのだ。交易のおかげで人びとは,農産物に特化して余剰食糧を生産する気になった。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.119-200