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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   
カテゴリー「食・農業」の記事一覧

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3秒ルール

3秒ルール(と総称させていただく)が伝播している文化圏と,そうでない文化圏の境界線がどこにあるのかは判然としないが,そのルーツは13世紀のモンゴル皇帝チンギス・ハーンにあり,「ハーン・ルール」と称されていた(!)という説がある。ハーンは戦いに勝つと祝宴を設け,将軍たちに料理と酒をふんだんに振る舞った。だがその際,「床に落ちた食べ物は12時間以内ならば,食べても安全である。信じたまえ!」と宣言して,みなをそれに従わせたというのだ。ハーンの宴席の食べ物ならそれほど長く落ちていたものでも食べる価値があった,というあたりがこの逸話の真意だろうが,3秒ルールが歴史に痕跡をとどめた例として貴重である。細菌数など調べる手段がなかった当時,「12時間」には「腐敗する前」という根拠があったのかもしれない。だが,ハーンのお膝元だったモンゴル,中国で3秒ルールがほとんど知られていなかったのは残念である。

村上道夫・永井孝志・小野恭子・岸本充生 (2014). 基準値のからくり:安全はこうして数字になった 講談社 pp.48
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生菌数の基準

多くの食品は,それぞれ生菌数の上限値が決められている。罰則があるものとしては「食品衛生法による食品別の規格基準」,また,罰則のない自主規定として,厚生労働省が示す「衛生規範」や地方自治体が示す「指導基準」がある。だが食品によっては,かなり高い生菌数を認められているものがある。たとえば弁当や惣菜は,1g当たりの上限値が加熱食品では10万個だが,非加熱食品では100万個まで認められている。やはり非加熱食品の生和菓子は,東京都では50万個まで認められている。加熱しないかぎり数を減らすことはできないが,加熱したら別な食べ物になってしまう(!)というジレンマの中で,このくらいなら製造者がなんとか達成できるだろう,という現実的な観点から決められているのである。
 いずれにせよ,非加熱食品の基準値は腐敗がみられる生菌数の10分の1でしかなく,安全のための余裕はほとんどないだろう。

村上道夫・永井孝志・小野恭子・岸本充生 (2014). 基準値のからくり:安全はこうして数字になった 講談社 pp.30-31

消費期限と賞味期限

まず「消費期限」と「賞味期限」の違いについて確認しておこう。農林水産省のウェブサイトによれば,消費期限とは「食べても安全な期限」である。対して賞味期限とは「おいしく食べられる期限」である。図1-1のように,これらは品質の劣化が速いか遅いかによって区別する,というのが農林水産省の説明である。お弁当や生和菓子などの保存がきかない食品に表示されるのが消費期限(おおむね数時間から5日),加熱処理などが施されていて冷蔵や常温で保存がきく食品に表示されるのが賞味期限というわけだ(なお,期限が意味をもつのは食品の包装を開けるまでの間である)。
 では,これらの期限を過ぎてしまった食品は,どうすればよいのだろうか。消費者庁はそれぞれの期限について,次のようにまったく違う対応を呼びかけている。
 「期限を過ぎた食品は食べないようにしてください」(消費期限)
 「期限を過ぎても必ずしもすぐに食べられなくなるわけではありませんので,それぞれの食品が食べられるかどうかについては,消費者が個別に判断する必要があります」(賞味期限)
 農林水産省や消費者庁の考え方をまとめると,消費期限は食品の「安全」を保つ,すなわち下痢や食中毒などの健康への悪影響をできるだけ低く抑えるための基準,賞味期限のほうは安全というよりは味が落ちるか否かを気にする人のための目安であり,それぞれを保存できる日数の長短により区別しよう,ということになる。

村上道夫・永井孝志・小野恭子・岸本充生 (2014). 基準値のからくり:安全はこうして数字になった 講談社 pp.25-26

成人人口とビール

1995年の前年は,日本でのビール系飲料の出荷が5億7321万2000箱とピークを迎えた年だ。それもそのはず,この年は,日本の20歳人口がピークを迎えた時期でもあった。
 1994年に満20歳を迎えた新成人は207万人,95年はほぼ変わらない201万人だった。つまり,団塊ジュニア世代という厚みのある世代が20歳を迎え,アルコールの消費者として加わっていった時期が,91〜95年である。ビール会社にとっては,新規の顧客が大量になだれ込んできた“入れ喰い”の時代だった。ちなみに,20歳を迎える新成人の人口は,その後は減り続け,2013年に20歳を迎えた人口は122万人まで減少している。1人の女性が一生に産む子供の平均数を示した合計特殊出生率でいうと,95年は1.42。ちなみに,団塊ジュニア世代でもっとも出生数の多かった73年は,2.14である。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.62

税制と焼酎

1998年には,税率アップの影響で前年よりも出荷量を減らしたものの,翌99年から出荷量は上向きとなった。そして,ウィスキー・ブランデー類が日本で消費量を減らすなか,「本格焼酎ブーム」を巻き起こすことになった。ついに2003年には,約50年ぶりに日本酒の出荷量を焼酎が超えるという快挙まで達成するのである。
 税率という国内の壁に守られていた日本の焼酎は,グローバルな自由貿易の時代に競争という波にもまれることで,はじめてその真価を発揮したのだ。

速水健朗 (2013). 1995年 筑摩書房 pp.59

補助金→杉→公共事業

杉は木材として品質の低いチープなものですから,市場で人気がありません。植林事業が進められた時,杉だけではなく,桜,欅,栗,栃など,多様な樹木を用いていれば,世界で売れる木を育てられたのに,そうはなりませんでした。
 私は古民家再生の仕事でインテリアのプロデュースも行っています。その仕事を通して,「日本はこんなに山が多いのに,使える木がない」ということに気付きました。エルム(楡)やウォルナット(胡桃)のダイニングセットは世界中で人気ですが,杉のダイニングセットを喜んで買いたがる人は,ほとんどいません。
 こうした状況下で,杉の使い道として唯一残るのは公共工事です。最近では売れない杉をどうにかしなければいけないことから,駅や学校など公共施設に杉を使わせる行政指導が進んでいます。木造建築が増えるのはよいことですが,結局,補助金で植えた杉を補助金で建てる建造物に使う,という補助金サイクルに迷い込んでいます。

アレックス・カー (2014). ニッポン景観論 集英社 pp.120-121

イングランドのチーズ

19世紀初めごろ,イングランドの主要なチーズのほぼすべては2つのカテゴリーに分類することができた。チェシャーに代表される北部地域のチーズは,非加熱で圧搾前に塩を加え,高い圧力で圧搾する技法で製造された。南部地域のチーズはチェダーを筆頭に,スコールディング(加熱)技法と,圧搾前に加塩してその後高圧で圧搾する方法を組み合わせて使用した。北部のチーズはスコールディングのステップを踏まないので,南部のものよりも幾分か水分率が高いチーズになった。また酸味が強いのが特徴であった。
 さらに酸味が強くて高い評価を得ていたスティルトン・チーズが,18世紀の半ばに注目を集めるようになっていた。スティルトンの製造者はチェシャーチーズと同様,カードを圧搾する前に加塩する技法を用いていた。おそらくチェシャーチーズからアイディアを借用したのだろう。しかしチェシャーのように高圧でプレスするのではなく,工程の間じゅうホェイの排出をむしろ制限する方法をとっていた。大型円筒型のスティルトンは,熟成の過程でも,そのサイズと形から,蒸発による水分の減少を制限するものだった。その結果,目が粗く,水分の多い,酸味の強いチーズになり,涼しくて湿度の高い環境で熟成させると,内側からも,外側からもカビが発生した。このチーズは非常に水分が多くて柔らかいため,熟成の間,円筒型がだれたりゆがんだりしないように,巻き布で締め固める必要があった。
 熟成時に外側を保護するためのカバーとして巻き布を使用した最初のチーズは,おそらくスティルトンだったと思われる。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.237-238

ロックフォール・チーズ

レンネットを使用して羊のミルクをゆっくり凝固させ,非加熱で,海の塩をたっぷりとチーズの表面に擦り込む簡単なチーズ製造技術はこの地でも発展した。出来上がったチーズは酸度も塩分も高く,ペニシリウム・ロックフォルティの生育に適した化学的環境となった。このようなチーズが洞窟の涼しくて湿度の高い環境に置かれて,ペニシリウム・ロックフォルティの生育はさらに高まった。チーズの風味と食感に青カビの成長が与えた影響は望ましいものと評価されるようになり,職人たちは製造方法と熟成の仕方をさらに洗練し,青カビによるチーズ製造を盛んに推し進めていった。
 ロックフォールチーズに関する確実な記録で最も早いものは1070年の,1人の貴族が「洞窟」と荘園をコンクのベネディクト修道院に寄進した時のものである。チーズの製造はこの地域ではすでに十分発達しており,修道僧たちは小作の農民たちとともにチーズ作りの技術を向上させるべく働いていた。この地に数多くある修道院が自分たちの「洞窟」をロックフォールに所有するようになり,チーズの生産を修道僧が管理運営するようになって,目に見えて発展した。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.215-216

ウォッシュタイプ

数頭の牛を飼うことのできた農家では,搾乳後すぐにチーズを作り始められるだけのミルクが採れたのだろう。荘園の農家の女性がコルメラのフレッシュチーズの手法(まだ温かい新鮮なミルクを,非常に強いレンネットで急速に凝固させる方法)をそのまま修正しないで使ったとしたら,出来上がったチーズは水分量の多い,しかし酸味の少ない特徴のものになっただろう。
 このチーズを,根菜用の地下室のような涼しくて湿度の高い環境で保存すると,チーズの表面には酵母が発生しやすくなり,そこにオレンジ色の色素を持った,コリネバクテリア菌が増えていく。初めは偶然の産物だったが,のちには計画的に,チーズの表面に付着した,ピンの先ほどのオレンジ色のコリネバクテリア菌のコロニーを擦って,チーズの表面全体に手で塗り広げ,濃度の低い塩水で湿らせることで,赤みがかったオレンジ色のバクテリアの層がチーズの表面全体に広がるようにしたのではないだろうか。
 この基本技術は塗抹熟成とかウォッシュと呼ばれる1つのグループを生みだした。フランス北西部のチーズの作り手はこの方法を用いて,ポン・レヴェックなどのコリネバクテリア菌が優勢なタイプのチーズを作りだした。ウォッシュタイプのチーズは,ヨーロッパ北部の修道院でのチーズ作りと長年にわたって関係があったことから「修道院のチーズ」と呼ばれることも多い。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.182-183

白カビチーズ

牛を1頭か2頭しか飼っていない農家では,チーズ作りに入るまでに,2回か3回の搾乳で採れたミルクを混ぜて使うのが実用的だろう。
 涼しいところで貯蔵していたミルクをおよそ85度(摂氏29度)に温め直して,活性レンネットで急速に(約1時間以内)凝固させる方法で,農家のチーズの作り手は水分量の多い比較的酸味の強いチーズを作り出していた。
 このチーズを涼しくて湿度の高い環境,たとえば根菜類の貯蔵用地下室のような場所で保存すると,その環境の影響を受けてチーズの表面に酵母やカビの育成が促進される。チーズの水分量と地下室の湿度が高すぎない状態なら,黒カビや青カビでなく灰色と白いカビがよく生育する。オレンジ色の色素を持ったコリネバクテリア菌状のバクテリアが後からチーズの表面にコロニーを作ることもあり,これは酸度を減少させるイーストやカビの作用による。農家の作るこのタイプのチーズは,たとえばブリー・ド・モーのような伝統的白カビチーズにいくらか類似するものだったと思われる。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.181

大きすぎる

エトルリア北部で作られるルナチーズは,その並外れた大きさのゆえ,マルチアリスは『キセニア』の中で上位4位に推薦している。マルチアリスによれば,ルナチーズはエトルリアの月のイメージで,非常に大きく,「奴隷に千食出せるほど」だという。大プリニウスもルナチーズがローマで最も評価の高いチーズの1つであると述べており,454kgからあるという。同じく大プリニウスによれば,ルナチーズはエトルリア国境辺り,北と西に接しているリグリアで作られているということだ。
 マルチアリスも大プリニウスもルナチーズの大きさを強調していた。誇張法は古代ではごく普通に行われていたが,これらのチーズが人々の注意を引いたのは,ローマ人の生活を優雅に飾ったやや小さい乾燥したペコリーノチーズやプリーノチーズよりも,明らかに大きかったからだ。非加熱で軽く圧搾し,表面に塩をするというチーズ製法をコルメラは記述しているが,これは小型の熟成チーズとフレッシュチーズの製法には最適だが,これでは大型の熟成チーズを作ることは全く不可能なのである。こうなると「いかにして大型のルナチーズが作られたか」という論点に戻って堂々巡りになってしまう。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.147-148

インドの場合

例を挙げれば,一晩おいてもよい生鮮食品でも,風味がなくなってしまったり,二度火を入れたものは食べるのに適さないとヴェーダに記されている。毛髪や虫が入っていたり,足や衣類のへり,犬が触れたものも同様である。カビのようなくさいにおいがする,虫がわいたかコナダニがついたようなチーズ,ヨーロッパでは愛好されているこうしたチーズが,食品の清浄性がこれほどまで重視されている文化的背景のもとで,盛んに作られるようになるとは考えにくい。
 この点に加えて,チーズの「腐敗」過程(チーズの熟成のこと)を制御する上で技術的な問題もある。インドのおおかたの地方では,1年のほとんどの時期,亜熱帯の高温で湿度が高い,モンスーンによる雨季が繰り返されるため,このような気候のインドで熟成チーズが生まれないことは納得がいく。

ポール・キンステッド 和田佐規子(訳) (2013). チーズと文明 築地書館 pp.62

不安定な周期

ところが,オーストラリアの大部分では,降雨がいわゆるENSO(エルニーニョ南方振動)に左右される。つまり,1年ごとの降雨量が予測不可能で,10年単位ではさらに予測不可能になる。オーストラリアに入植した最初のヨーロッパの農業経営者と牧畜業者は,ENSOによって決まるこの国の気候のことなど知るすべもなかった。ヨーロッパではこの現象の発見はむずかしく,気候学の専門家でさえ,最近数十年でようやくそれを認識するようになったほどだ。オーストラリアの多くの地域では,最初の農業経営者と牧畜業者が,湿潤な年の続いた時期に渡来したという不運があった。そのせいで彼らは惑わされて,オーストラリアの気候を見誤ってしまい,目に映る好ましい状況が標準だと思い込んで,作物やヒツジを育て始めた。実のところ,オーストラリアの農地の大部分では,作物の生育に十分な降雨がある年はむしろめずらしい。たいていの場所では,降雨が足りる年と足りない年がほぼ半々で,いくつかの農業地域では10年のうち足りるのが2年程度だ。そのせいで,オーストラリアの農業は費用がかさみ,採算が成り立たない。農業経営者が耕作と種まきに金を費やしても,作物を収穫できない年が半分以上あるのだ。さらに,もうひとつの不運な状況として,農業経営者が地面を耕作し,前回の収穫のあとに出てきたなんらかの雑草の被覆ごと地面の下を掘り起こして,裸の土壌がむき出しになることが挙げられる。もしその後,農業経営者が種をまいた作物が育たなければ,土壌は裸のままで,雑草にすら覆われず,侵食にさらされてしまう。つまり,降雨量が予測できないせいで,短期的には作物栽培の費用がかさみ,長期的には侵食が増大するのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.167-168

非生産的大陸

オーストラリアの環境をん題を考える際,最初に頭に浮かぶのが,水不足と砂漠だ。実のところ,オーストラリアの土壌は,水の入手困難以上に大きな問題を引き起こしてきた。オーストラリアは,最も非生産的な大陸なのだ。その土壌は,平均して最も栄養濃度が低く,最も植物の成長が遅く,最も生産力に乏しい。それは,オーストラリアの土壌が概して非常に古く,数十億年を経るうちに雨でその栄養分が浸出してしまったからだ。オーストラリア西部のマーチソン山脈には,地殻として残っている最古の,約40億年前の巌が存在する。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.160

環境の脆弱さ

オーストラリアだけでなく現代の多くの国々が,みずからの環境を搾取(マイニング)しているが,オーストラリアはいくつかの理由から,過去と現在の事例研究の掉尾を飾る地としてふさわしい。この国は,ルワンダ,ハイチ,ドミニカ共和国,中国とは違って,本書の読者となる人の大部分が住む先進国のひとつだ。先進国の中でも,この国の人口と経済は,アメリカやヨーロッパや日本と比べてずっと小さく,あまり複雑ではないので,状況を把握しやすい。生態学的に見ると,オーストラリアの環境は並はずれて脆弱で,おそらくアイスランドを除けば,先進国中で最も脆弱だろう。その結果,他の先進国にいずれ大損害をもたらすかもしれず,第三世界の諸国ではすでに顕在化している多くの問題——過放牧,塩性化,土壌侵食,外来種,水不足,人為的な旱魃——が,オーストラリアではゆゆしき段階を迎えつつある。つまり,オーストラリアは,ルワンダやハイチのように崩壊の危機に瀕しているわけではないが,現在の傾向が続けば先進国のどこかで実際に起こるはずの数々の問題の,毒味をしているようなものだ。とはいえ,それらの問題の解決をめざすオーストラリアの先行きは希望を与えてくれるし,けっして暗くはない。それに,オーストラリアは,よい教育を受けた国民と,高い生活水準,世界の基準から見て比較的公正な政治・経済制度を有している。したがって,オーストラリアの環境問題を,どこか別の国の環境問題を説明する際にありがちなように,教育を受けず貧困にあえぐ国民と,ひどく腐敗した政府及び企業による不当な生態系管理の産物としてかたづけることはできない。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.158-159

日本の森林管理

日本で育林の興隆が促されたのは,制度や手法が全国でほぼ統一されていたからだ。当時数百の公国や小国に分かれていたヨーロッパの状況とは異なり,江戸時代の日本は単独の政府に統治された国家だった。南西部は亜熱帯気候,北部は温帯気候に属するが,国全体が一様に高湿で,起伏に富み,侵食を生じやすく,火山性の起源を持ち,森林に覆われた急峻な山脈と平野の農耕地に分かれているので,ある程度育林の条件に生態系上の統一性が得られる。日本古来の多様な森林の利用法,つまり支配層が木材の権利を主張し,農民が肥料や飼料及び燃料を集める方式に代わって,植林地は木材生産という主要な目的用に限定され,他の目的は木材生産に支障のない範囲でのみ許可されるようになった。役人が山林を巡視して,不法な伐採行為を取り締まった。こうして,植林による森林管理は,1750年から1800年のあいだに日本に広く受け入れられ,1800年までには,日本の長期にわたる木材生産の落ち込みは上昇に転じた。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.50-51

トップダウン方式の森林管理

しかし日本は,ドイツとは関係なく同時期にトップダウン方式の森林管理を発展させていたことがわかっている。この事実にも,驚かされる。日本は,ドイツと同様,工業化された人口過密な都市型社会だからだ。先進大国の中で最も人口密度が高く,国全体では1平方マイル(約2.6平方キロメートル)当たり1000人,農地では1平方マイル当たり5000人が住んでいる。これほど過密な人口をかかえながら,日本の面積の80パーセント近くは,人口がまばらで森林に覆われた山々から成り,ほとんどの国民と農業は,国土のたった5分の1に当たる平野に押し込められている。国内の森林は,非常によく保護され,管理されているので,木材の貴重な供給源として利用され続けながらも,範囲をさらに広げつつある。国土が森林に覆われていることから,日本人はよく自分達の島国を“緑の列島”と呼ぶ。この緑の覆いは,見たところ原生林に似ているが,実際には,日本の利用可能な原始の森は300年前にほとんど切り開かれてしまい,再生林と植林地に置き換えられて,ドイツやティコピア島と同じように,細部まできびしく管理されている。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.37

原始的なのか

ヨーロッパから来た探検家や入植者たちの目には,ニューギニア高地人は“原始的”に見えた。人々は草葺き屋根の小屋に住み,部族間の戦争に明け暮れ,王どころか首長さえ立てず,文字を持たず,豪雨を伴う寒冷な気候条件下でもほとんど衣服を身に着けない。また,金属を持たないので,代わりに石と木と骨で道具を作る。例えば,樹木を切り出すには石の斧,菜園や用水路を掘り起こすには木の棒,一戦交えるには木の槍と矢,そして竹のナイフという具合だ。
 しかし,“原始的”なのは,見かけだけだった。彼らの農法は洗練されており,今日でも,なぜニューギニアの農法が成功する一方で,ヨーロッパから善意で持ち込んだ革新的な農法がかの地では失敗したのかと,ヨーロッパの農学者たちが首をかしげる事例があるほどだ。例えば,ヨーロッパのある農業指導者は,ニューギニアの湿潤な地域の急斜面に作られたサツマイモ畑に,斜面をまっすぐ下へ走る垂直の排水路が設けられていることに気づいて仰天した。指導者は,村人たちを相手に,その恐ろしい間違いを修正して,ヨーロッパの優れた習慣にならい,地形に沿って水平に走る排水路を掘るよう説いた。気圧された村人たちは,排水路の方向を改めたが,その結果,排水路の深部に水が溜まり,次の豪雨の際に地すべりが生じて,畑がまるごと斜面の下の川まで運び去られてしまった。まさにそういう自体を避けるべく,ニューギニアの農民たちは,ヨーロッパ人が渡来するずっと前に,高地特有の降雨と土壌の条件下で垂直の排水路を設ける利点を学んでいたのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(下巻) 草思社 pp.17-18

食糧と軍事的成功

われわれは,軍事の成否は食糧の供給よりむしろ武器の質で決まると考えがちだ。しかし,食糧供給の実情を改善することで,軍事の成功率が確実に上昇することもある。それが明らかにされた事例を,マオリ時代のニュージーランドの歴史から引いてみよう。マオリとは,初めてニュージーランドに入植したポリネシアの人々だ。旧来マオリ族は,仲間うちで激しい戦闘を頻繁に繰り返していたが,その争いはごく近隣の部族間のみに限られていた。戦闘行為に限界があったのは,サツマイモを中心とする農業の生産性が低く,長期間,あるいは遠距離の行軍に足りるだけのサツマイモを育てることができなかったからだ。ヨーロッパ人がニュージーランドにジャガイモを持ち込んだおかげで,1815年ごろから,マオリ族の作物の収穫高は著しく上昇し始める。この時点で,何週間もの行軍に見合う食糧の生産と供給が可能になった。その結果,1818年から1833年のあいだ,マオリの歴史上15年にわたって,イギリス人からジャガイモと銃を入手した部族が,何百キロも離れた土地に軍隊を送り出し,ジャガイモも銃も入手していない部族に急襲攻撃を仕掛けることになった。トウモロコシの生産性の低さがマヤの戦争に限界を築いたように,マオリ族の戦争にも限界があったが,ジャガイモの生産性がその限界を破ることになったのだ。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.260

交易網解体

人間が多すぎて食糧が少なすぎるという状況のなか,マンガレヴァ社会は,内乱と慢性的な飢餓という泥沼にはまり込んでいった。その顛末は現代の島民たちによってもつまびらかに言い伝えられている。人々は蛋白質を求めて人肉食に走り,死んだばかりの人間の肉を貪るだけでなく,埋葬された遺体まで掘り起こしたという。残された貴重な耕作地を巡って,絶え間のない争いが続き,勝ったほうが負けたほうの土地を奪って分け合った。世襲の首長を頂く階級制の政治組織に代わって,非世襲の戦士たちが支配権を握った。島の東西に分かれたちっぽけな軍事政権同士が,差し渡しわずか8キロメートルの島の支配権を巡って戦闘を繰り広げるのは,いかにも滑稽な状況だが,事情はそこまで切迫していたわけだ。そういう政治的混乱は,それだけでも,カヌーで遠出するのに必要な人出と物資を集めたり,自分の畑をほったらかして1ヵ月留守にしたりすることの妨げになっただろうが,そもそもカヌーを造るための木材が払底していた。ワイズラーが手斧の材料である玄武岩を同定して実証したとおり,中心であるマンガレヴァ島の崩壊に伴って,マンガレヴァ島とマルケサス諸島,ソシエテ諸島,トゥアモトゥ諸島,ビトケアン島,ヘンダーソン島を結んでいた東ポリネシアの交易網は解体したのだった。

ジャレド・ダイアモンド 楡井浩一(訳) (2005). 文明崩壊:滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻) 草思社 pp.210-211

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