読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
このようにアイデアの流れに注目するのが,社会物理学という名前をつけた理由だ。通常の物理学の目標が「エネルギーの流れがどのように運動の変化をもたらすか」を理解することであるように,社会物理学は「アイデアや情報の流れがどのように行動に変化をもたらすか」を考察する。
アレックス・ペントランド 小林啓倫(訳) (2015). ソーシャル物理学:「良いアイデアはいかに広がるか」の新しい科学 草思社 pp. 17
科学は私たちに説明を探すための戦略を授ける――だが絶対的な真理を探すための戦略はもたらさない。それどころか,絶対的な真理を求めるなら目を向ける先は純粋数学か宗教しかなく,断じて科学ではないと言われている。なぜ純粋数学が絶対的な真理をもたらすかと言えば,純粋数学とは単にあるルール一式を適用した場合にある公理一式からもたらされる結論を導くことだからだ。あなたは独自の世界を定義するわけで,その中でなら確かに絶対的な真理を述べられる。一方,信仰の表現としての宗教は,ある絶対的な真理を信じていることの表明である。
それに対し,科学は可能性がすべてだ。私たちは理論を,予想を,仮説を,説明を提唱する。そして証拠やデータを集め,その新たな証拠に照らして理論を検証する。データが理論と矛盾するなら理論のほうを変える。そうすることで科学は前進し,理解はいっそう深まる。だが,既存の理論と矛盾する新たな証拠が出てくる可能性は常にある。結論が変わりうること,すなわち真理が絶対でないことは科学のきわめつけの本質だ。
デイヴィッド・J・ハンド 松井信彦(訳) (2015). 「偶然」の統計学 早川書房 pp. 253
結果を選ぶことが結論をゆがめる一形態だと言うなら,実験を行ってデータを集めたあとに,検証しようとする仮説を決めることもそうだ。これは hypothesizing after the results are known (結果がわかったあとに仮説を立てる)の頭字語としてharking(ハーキング)と呼ばれている。これならデータが支持する仮説を簡単に立てられるに決まっている!こう説明されると見るからに危ういやり口に思えるが,効果は概してずいぶんさりげなく現れる。たとえば,研究者がデータをふるいにかけ,ある決まった傾向の兆しを見いだしたあとに,もっと詳しい統計分析を同じデータに対してかけて検証して,見いだした傾向が有意かどうかを確認するのである。だが,どのような結論が出ても,それは傾向の兆しを見いだした当初の考察で歪められている。
デイヴィッド・J・ハンド 松井信彦(訳) (2015). 「偶然」の統計学 早川書房 pp. 171
科学分野では,またときには社会科学でも,行動には動機があるものと考える。というのも,多くのものがあたかも目的をめざしているかのようにふるまうからだ。たとえば,水は同じ高さをめざす。自然は真空を嫌う。泡は表面張力を最小化しようとする。光は,さまざまな物体を異なる速度で通過して最短距離を進もうとする,といった具合である。だがJ型の管に水を満たし,低い方の先端を閉じて管の中の水が同じ高さに到達できないようにしたら,水が困惑するとは誰も考えない。閉じていた先端を開いて水が噴き出し,床に飛び散ったら,同じ高さになろうとしてあわてるからだと非難する人もいない。同様に,光が最短距離を進むのは急いでいるからだ,とも考えない。なるほど近頃では,ひまわりは太陽光が浴びられないと悲しむと考える人がいる。また,木の葉は光合成を最大化するために,枝上で太陽光を分け与えるような位置を探すとも言われる。林業を営む人なら,木の葉がうまく位置取りしてくれたらうれしいだろう。だがそれは,木の葉のために喜ぶのではない。そもそも,木の葉が自分たちの利益になるようにふるまっているのか,単に酵素の命じるとおりにしているのか,あるいは「目的」とか「~をめざす」といった言葉がまったくそぐわないような科学的な系の一部に組み込まれているのかは,おそらくわかっていない。
トーマス・シェリング 村井章子(訳) (2016). ミクロ動機とマクロ行動 勁草書房 pp. 11-12
『広辞苑』(岩波書店)の表紙には,いまでも「新村出編」と掲げられており,編者名がブランド力を持った感がある。初版は1955年。現在は2008年刊行の「第六版」まで版を重ねている。新村出は1967年に死去。彼が関わったのは初版までである。「第二版」「第三版」「第四版」は長男の新村猛を中心に編まれた。猛の長男の新村徹も関わっている。新村猛は1992年,徹のほうは不慮の事故で1984年に死去。『広辞苑』の「第五版」「第六版」において,新村家3代は関わっていない。それでも「新村出編」という名前を残しているのは,新村出が『広辞苑』の基本コンセプトを作ったこと,それを守り続けていくことを広く知らしめるためであろう。これは刑法学者の末弘厳太郎と似ている。なるほど,神童はこうして後世に伝えられていくものなのか。1980年代まで,新聞社や出版社で新人記者が原稿の中でひどくあやふやな言葉を用いると,デスクは「新村さんに聞きなさい」と突っ返すことがあった。「広辞苑で調べろ」という意味である。いまは,ネットで調べれば済んでしまうことが多くなったので,「新村さん」の出番は少なくなりつつある。さびしい話だ。神童さんと読みかえてもよかったのに。
小林哲夫 (2017). 神童は大人になってどうなったのか 太田出版 pp. 107-109
道徳哲学を風刺するジョークがある。問題:電球を変えるのに必要な道徳哲学者は何人か? 答え:八人。一人は電球を替えるために,七人はその他のすべての条件を同一に保つために。だがそれは,路面電車のシナリオが役に立つようにきわめて注意深く組み立てられているからにほかならない。
現実の生活はホワイトノイズ,つまり倫理的な雑音であふれている。現実生活はとても複雑なので,道徳的推論の適切な特徴を見きわめるのは難しい。路面電車のシナリオは,基本原則を抽出し,有意義な差異を検知できるように設計されている。そのためには,気を散らすようなゆがんだ音を消し去るしかない。科学的方法との大まかな類似点を考えてみよう。研究室では,たておば光の効果をテストしたい場合,光を変化させる一方でほかの要素はすべて一定に保っておく。同じように,ある特定の特徴が道徳的に妥当かどうかを判断したければ,この一つの変項をさまざまに変化させながら,それ以外の点では同一の二つの事例を想像してみるといい。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.149-150
こうした世論調査やアンケートに訴えることの哲学的価値とは何だろうか?何の価値もない,そんなことをしても無駄だと言う人もいる。ケンブリッジ大学の著名な哲学者ヒュー・メラーもその一人だ。「これが哲学だとすれば,人々に円は四角だと思うかどうかをたずねるアンケートは数学だということになる――だが,それは数学ではない」
しかし,調査情報の収集や直観のデータバンクの構築は,われわれの直観の信頼性に疑問を投げかけるために利用されてきた。そして,専門家の直観はふつうの人のそれよりも信頼できるかという関連問題を提起してきたのだ。
デイヴィッド・エモンズ 鬼澤忍(訳) (2015). 太った男を殺しますか?「トロリー問題」が教えてくれること 太田出版 pp.137-138