読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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自然が私たちの心身に役立つ理由をめぐっては,3つの対立する説がある。1つ目は進化にかかわるもので,食糧が見つかる肥沃な自然環境を探し出すのを助けるために,自然界の事物を好ましいと思う性向が進化したのだと主張する。2つ目は心理学的な説で,自然は私たちに「自分よりも大きい」何かに属しているという感覚を与えることによって,過度な自己中心性やネガティブな思考に陥るのを妨げるのだと訴える。第3の説は,自然界の中で人の回復を助けてくれる場所には「ソフトな魅力」があると主張する。つまりそのような場所には雲や夕日,風にそよぐ葉の動きなど,見た目に魅惑的で心を落ち着かせてくれるものが存在し,このソフトな魅力が心に平穏をもたらす助けになるというのだ。これらの説は,美しく感じられて心地よい自然界の音に対する私たちの反応を説明するには役立つかもしれない。しかし,そうでない音についてはどうだろう。
トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.97-98
先のような誤った考えのために,人間の研究は数年前までまったく旧態依然としたままであった。現在ですら人類学者や社会学者の多くは,進化から学ぶべきものはないと明言している。人間の肉体は自然淘汰の所産であるが,人間の心や行動様式は「文化」の所産である。人間の文化は,人間の本性を反映してはおらず,本性が文化を反映しているのだ,と。それゆえ社会学者たちは文化間の相違や,個人間の相違のみに研究を限定し,そうした相違を過大視しているのである。しかし私が人間について最も興味を感じるのは,人間が共有している事柄であって,文化によって異なる事柄ではない。例えば文法規則のある言語,階級制,ロマンチックな恋,性的嫉妬,異性間の長期にわたる絆(「結婚」とも呼ばれる)などである。こうしたものは我々の種に特有な,学習で変更可能な本能で,目や親指がそうであるように,まぎれもなく進化の所産なのである。
マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.286-287
ヴントにあっては,個人心理学と民族心理学の関係は,後者が前者の応用であるとか,後者が集団行動を扱い,それに対して前者は個人レベルの心理や行動を扱うから“個人”心理学である,といった程度の漠然たる使い分けにとどまらない。方法的体系的に独立した“二つの”学問として立てられている。生理学的心理学すなわち「個人心理学」の対象が,いわば“窓のないモナド”のように,個々に閉じており,その殻を突き破って外に出ることのない絶対私秘的な<意識>であるとするならば,そのような“個人”心理学の成果をどのように束ねてみても,それ以上に高次の統合的な学としての「民族心理学」を(つぎ木のようにではなく)形成することは困難であろう。このことはヴント自身によってとくに明らかに述べられてはいないけれども,個人心理学の目標が上記のような“内観”による“私秘的な”意識過程の分析にあるものと理解する限り(この理解の是非については後節で改めて検討するが),「生理心理学」および「民族心理学」という体系的に独立して相互に論理的交渉を持たない“二つの”心理学の併存を認める結果となってしまうのも,原理上,やむをえないことであったと思われる。
高橋澪子 (2016). 心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 講談社 pp.190
ヴント心理学の二本の柱の一つである実験心理学は,1874年の主著の表題に即して言えば「生理学的心理学」であるが,伝えられるところによると,この名称は,上記の表題以外ではあまり用いられず,彼自身も“実験的”という言葉の方を早くから慣用的に使っている。ヴントの場合,“実験的”というのは“生理的”というのと内容的にまったく同じで,そのころの感覚生理学者が日常ごく普通に用いていた実験室的方法のみが念頭に置かれており,したがって,彼の言う<実験>は非常に限られた意味しか持っていない。一方,ある学問が他の学問と異なる独立した一個の学と呼ばれるためには,当然,その学問に固有の方法と固有の対象ないし立場が明確にされていなければならない。“生理学的”方法を用いることは,これまでの“哲学的”心理学に対する新しい心理学の立場を明らかにするものではあるが,たんに“生理学的”方法を用いるだけでは,従来の生理学者による感覚知覚の研究から区別された生理学的“心理学”の存在理由として不十分である。ヴントの実験心理学をそれまでの感覚生理学から独立させ,“生理学的”諸学に対してユニークな学問にしてきたのは,したがって,生理学的方法と並ぶ内観的方法(方法としての内観)の定式化であり,生理過程ではなく意識過程を固有の研究対象と定めた点であろう。
高橋澪子 (2016). 心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 講談社 pp.186
上記のような新行動主義の路線に比べて,認知心理学者の態度は,いま少し寛容である。行動主義や新行動主義の心理学では,被験者の心の世界は,実験者に直接それが観察できないという理由で研究対象から除外されてしまったが,その世界は“実験者には見えなくても”被験者には(少なくとも「知覚」程度の表層的な“心理”が問題となっている場合には)明らかに見えているだろう。とするならば,その“内観”を利用しないという手はない。先の「認知地図」のようなものも(相手が人間の場合は)実験者に見える被験者の行動だけから実験者が概念的に作り上げるという回りくどいことをしなくても,被験者に見えたものを具体的に描かせることで,その“絵”から,はるかに内容豊富な情報が直接得られるに違いない。「課題解決」実験場面で,認知心理学者が,しばしば被験者の“方略”についての内観報告を記録するのも,それらを集めて系統的に分類整理(解析)することによって,被験者の心の世界がどのように階層化されており,どのような構造を持っているかを,たとえ部分的にであれ明らかにすることが出来るからである。
高橋澪子 (2016). 心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 講談社 pp.53-54
以上を要約すれば,一括して新行動主義者と呼ばれてきた人々は,すべて,近代自然諸科学の一つである行動主義心理学の基本路線は堅持しながら,その中で,可能な限り,ゲシュタルト心理学の提言を取り入れることによって,少なくとも古典的行動主義の要素主義的方法論の行き詰まりを打開しようとしてきたし,また,「操作的定義」という新しい武器を用いることによって,意識主義と行動主義の認識論的統合を実現することも目指していたに違いない。だが,すでに見たように,この種の“統合”が論理的に不完全であることは明らかであり,新行動主義が結局のところ古典行動主義の改良版でしかありえなかったことは,いまや誰の目にも明白なものとなっている。
高橋澪子 (2016). 心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 講談社 pp.53
まず,心理学史における方法論上の変革は,その第一弾が19世紀後半の「内省のみによる意識の質的分析から実験の併用による意識の統制的かつ量的分析へ」という形で出現した古典的実験心理学の登場であり,第二弾が20世紀初頭の「分析加算的実験から現象学的実験へ」という形で起こったゲシュタルト革命であり,後者と同時に起こった「内観法の否定」という行動主義革命には単なる方法上の革命を越える認識論的主張が含まれていた。次に,心理学史における認識論上の変革は,その第一弾が,17世紀のデカルト的「我(意識)の発見」に始まり,これを外的世界と並ぶ“もう一つの”広がりのある「内的世界」として外的世界と類比的な分析的学問の対象に変えてしまったロック,および,その後の連合心理学者たちの内観心理学にいたるまでの,やや長い道程として出現し,つづく第二弾は,この「内的世界」を科学の対象から追放した20世紀初頭の行動主義革命であり,そして,第三弾が,いまなお完成していないゲシュタルト心理学者による現象学的な“意識の復権”である。
高橋澪子 (2016). 心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 講談社 pp.49-50