読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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したがって,欧米諸国における個人意識のすさまじさには,ただただ,あきれはてるほかはない。「教育をうけない権利」,「予防接種を拒否する権利」,「強盗を殺す権利」など,どれをとってみても,そうである。日本では,しばしば,自由と放縦はちがうとか,自由には責任をともなうとかいわれるが,自由がはじめにでてきたのは,もともと,そんななまやさしい,きれいごとの議論からではない。あくことのない自己主張がほんとうに原動力なのである。
考えてみれば,これだけの解放へのエネルギーが,ながいあいだ,生きるために止むをえないとはい,伝統的な階層意識や社会意識によくおさえつけられてきたものである。ヨーロッパの近代は,伝統思想の動揺しはじめたのをきっかけに,つもる恨みが一気に奔流したような感じで出発している。血なまぐさい革命さわぎが何回もおこるのは,あたりまえであろう。
鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 160-161
日本にも,ヨーロッパの村落共同体に似たものはあった。しかし,そこでは,個々の農家の独立性ははるかに高い。水田の場合は,地力を落とさないためには,休耕どころか,逆に,毎年連作する方が望ましい。そうしないと,雑草が繁茂して,水田はたちまち荒廃する。だから,水田の安定度は高く,はやくから個別占取の対象であった。比較的高い穀物生産力水準が維持できたのは,第一次的には,むかしから耕作を欠かさずにきた「ご先祖さま」の努力のおかげである。村落共同体は,水利灌漑,共同林野の利用など,いわば第二次的関係において,個別的な農民経営に介入するにすぎない。日本で家族意識や祖先崇拝が根づよく温存されたのは,一つには,そのせいではなかろうか。
これに対して,もともと耕地の不安定なヨーロッパでは,日本とちがって,「これこそ先祖伝来の田畑」といった観念は,なかなかでてこない。そこでは,毎年穀物生産のつづけられることをだれかに感謝しなければならないとすれば,その相手は死んでしまった過去の祖先ではない。現在すぐ近くに居住し,たえず接触している村の仲間であった。「死んだ祖先」より「生きている村の仲間」の方がはるかにだいじであった。だから,ヨーロッパ人は,なかなか,日本人の「祖先との一体感」や「祖先崇拝」を理解できない。
鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 127-128
たとえば,労働組合のあり方がそうである。現在では,労働組合の組織率自体は,日本と欧米諸国のあいだに大差はない。けれども,組合の形態や構成はずいぶんちがう。日本の労働組合は,ほとんどすべて,企業もしくは会社単位に結成される企業別組合である。特定の企業なり会社なりの従業員であることが組合加入の要件で,なにかの都合から企業や会社を退職すれば,同時に組合員ではなくなる。従業員イコール組合員である。
このようなものは,欧米の概念からすれば,いわゆる「御用組合」で,ほんとうの労働組合ではない。欧米諸国の労働組合は,原則として,同職の労働者や同じ産業に所属するものの横断組織で,ある組合員がどの企業のどの会社の従業員であるかは,さしあたり問題でない。反対に,同じ企業,同じ会社につとめていても,職種がちがえば,別の組合に属している例はいくつもある。
鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 104
こうなると,日本とヨーロッパの支配階級のあり方がちがうのは,根源的には,強烈な断絶論理があるかないかである。断絶論理のない日本では,支配・被支配関係はあまりはっきりしない。支配者とも被支配者ともつかないものが大量に存在し,そのような連中までが支配階級に格付けされる。いいかえれば,支配階級と非支配階級は,なだらかな曲線によって相互に移行するのである。
これに対して,動物,非ヨーロッパ人,ユダヤ人を順次疎外していくヨーロッパの強烈な断然論理が,さいごに「ほんとうの人間」として残すのは,ごく少数の支配階級だけである。支配者と被支配者ははっきりした一線によって劃され,どちらともつかないあいまいな存在はない。支配階級はあくまで孤高の特権階級で,必要もないのに,ほかの連中をよせつけたりはしない。
このことは,支配者の理想像を比較すれば,いちだんとあきらかになる。過去の日本で名君とたたえられた人物は,ほとんど例外なしに,質素な生活の実践者である。倹約であることを支配者の資質にかかげる政治論も多い。実際にはぜいたくのかぎりをつくした支配者も大勢いるが,そのような人物はけっして理想化されたりはしなかった。
鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 91-92
日本でも,もちろん,結婚にかんする親等制限はあった。しかし,伝統的にかなりゆるやかで,過去にさかのぼるほどそうである。神話時代には兄弟・姉妹の結婚の例があるし,鎌倉時代まで,異父母の兄弟・姉妹の結婚は可能であった。江戸時代になって,ようやく,「オジと姪」,「オバと甥」の結婚が禁止され,また養親子,婚姻関係も血縁関係に準じて扱われるようになった。
これに対して,ヨーロッパの親等制限は,単にきびしいだけでなく,歴史的にみると,ちょうど日本の逆である。古い時代になるほどうるさくなる。9世紀から12世紀のころまでは,日本民法のやり方で計算すれば,14親等の間柄まで結婚できなかった。13世紀になって,やっと禁止範囲が8親等以内に縮小した。現在のカトリック教会法ではそれがさらにゆるやかになり,直系全部と6親等内の傍系血族,4親等内の傍系姻族だけが禁止の対象である(カトリック教会の親等計算方法は特殊なので,一般的な形で正確に日本民法にあわせることはできない。以上の親等数は,すべて概数である)。それでも,このゆるくなった現在さえ,日本よりはきつい。たとえば,従兄弟・従姉妹同志は,原則として結婚できないことになっている。
現在のことはさておき,過去の14親等あるいは8親等という制限は,一口にいえばなんでもないようでも,実際はたいへんなことである。社会移動がすくなく,かぎられた地域から配偶者をえらばなければならない時代のことで,うっかりしていれば,たちまち制限にひっかかる。なにも知らないで結婚したところ,あとでその結婚が無効だとわかるような場合もおこりかねない。また,離婚したいと思って,相手の近親関係を綿密にしらべなおしたところ,首尾よく親等制限にかかった,という悪意ある場合も十分に予想できる。
鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 75-76
明治以来,こうした日本農民の重労働を見て,欧米諸国の農学者は,よく,日本の水田耕作は農業(agriculture)でなくて園芸(gardening)であると指摘した。かれらの観念によれば,犁耕・施肥によって耕地をととのえてから種子をまき,あとは収穫までほっておくのが農業である。播種と収穫のあいだにやたらと手間がかかるのは,園芸だけである。かれらによれば,日本の水田耕作は,まさにそうした範疇に入るものであった。
鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 38-39
したがって,日本とヨーロッパの肉食率を大きくへだてるのは,食生活パターンが,主食と副食を区別するか,しないかの一点につきる。日本人が主食観念に固着するかぎり,いくら表面上の洋風化がすすんでも,高い穀類・いも類依存率,したがって低い動物性食品依存率という状態は,そうかわらない。主食だけであるていど満足するから,結構,ままごと肉食でやっていけるのである。
もちろん,主食の内容は無理に米飯でなくともよい。米飯をパンに切りかえても,パンを主食ないしはそれに準ずるものとして扱うかぎり,事態は同じである。ただ,主食としてみれば,両者の優劣ははっきりしている。水分のすくない,カサカサしたパンは,とても,米飯のような調子で,大量にのどを通すわけにはいかない。
鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 11-12
ところが,肉食率の高いヨーロッパでは,主食的なものがどれか,あまりはっきりしない。パンの役割は日本の米飯とまるでちがう。このことは,いわゆる西洋料理のコースのすすめ方をみてもわかる。パンを食べるのは,ポタージュ(スープ)がおわってから,肉・魚・チキン料理が出ているあいだだけである。サラダを食べはじめたら,残っているパンはもっていかれてしまう。あとで日本の漬物のかわりにチーズをつまむことがあるが,このときにもパンはない。全体からみれば,パンはいわばおそえものにすぎない。
鯖田豊之 (1966). 肉食の思想 中央公論社 pp. 10-11
もっと正確に言えば,われわれが思いついたのは,グーグル・ブックスをもとに,英語の本に登場するすべての語や句の記録一式を作り出すことだった。こうした語と句はコンピュータ科学の分野では一風変わった「nグラム(n-gram)」という用語を使って表されることがある。単語はいずれも1グラムで,円周率を表す3.14159も1グラムになる。banana split(バナナスプリット=バナナを縦に半分に切ってアイスクリームなどを載せたデザート)は2つの単語からなるので2グラム,the United States of America(アメリカ合衆国)は5グラムである。その記録にはそれぞれの語や句について,本の中にその特定のnグラムが登場する頻度を示す数字が載っていることになる。過去5世紀にわたって年ごとの出現回数を調べるので,数字の列はかなりの長さになるはずである。これなら非常に興味深いものになるだけでなく,法的にも問題ならないように思われた。ライマーの本は他の人の書いた小説に出てくる単語を抜き出してアルファベット順に並べ替えたものだが,そんな「改訂版」を出したことを理由に彼女が告訴されたことは一度もなかった。
エレツ・エイデン ジャン=バティースト・ミシェル 坂本芳久(訳) (2016). カルチャロミクス:文化をビッグデータで計測する 草思社 pp. 94
そうは言っても文化的概念は広まっていくので,サスカッチという単語を見つけ出すのは,いまではそれほど難しくはなくなっている。サスカッチに比べれば,Loch Ness monster(ネス湖の怪獣,いわゆるネッシー)という語句のほうが見つけにくい。200冊に1冊登場するだけなのだ。だが,謎めいた動物の呼び名を対象に,語彙の歴史的足跡をたどる追跡者としての根気がどれほどのものかを本気で検証したいと考えているなら,Chupacabra(チュパカブラ)という単語が出てくる例を探してみるといい。この吸血動物が最初に目撃されたのは1995年で,場所はプエルト・リコだった。それ以上のことはよくわかっていない。それでも,サスカッチよりチュパカブラのほうがはるかに「目にする機会が少ない」と言うことはできる。目撃するのは,1億5000万語に1回,冊数で言えば約1500冊に1回にすぎない。これは,並外れた読書家でも生涯に1回,目にするかどうかの数字である。もしかすると,これがチュパカブラとの最後の出逢いになるかもしれないから,この機会を心ゆくまで味わってほしい。
エレツ・エイデン ジャン=バティースト・ミシェル 坂本芳久(訳) (2016). カルチャロミクス:文化をビッグデータで計測する 草思社 pp. 80-81
1996年,スタンフォード大学でコンピュータ科学を専攻していた二人の大学院生が取り組んでいたのは,当時「スタンフォード・デジタル図書館技術プロジェクト」という名で呼ばれていた研究だった。いまでは終了しているこのプロジェクトの目標は,本の世界とワールド・ワイド・ウェブとを結びつけた将来の図書館のあり方を構想することにあった。彼らが取り組んだのは,図書館の蔵書を自由に検索してサイバースペース内で次から次に本を歩猟できるようにするためのツールの開発だった。しかし,当時はこのプロジェクトには無理があった。利用可能なデジタル書籍の数がかなり少なかったからである。そこで,彼らは文書から別の文書へと進んでいくという自分たちのアイデアと技術を利用して,ビッグデータの跡をワールド・ワイド・ウェブの中で追うことにした。こうして,彼らの取り組みは小規模な検索エンジンに転化した。彼らはそれを「グーグル」と名づけた。
エレツ・エイデン ジャン=バティースト・ミシェル 坂本芳久(訳) (2016). カルチャロミクス:文化をビッグデータで計測する 草思社 pp. 30
広告収入の増加と同時に,音楽業界では別の変化が起きていた。経済学者によると,一般消費者が娯楽にかける費用は比較的安定しているはずだった。ということは,ある分野にかけるおカネが減ると別のところにおカネを落としていることになる。ライブ市場のトレンドはこの仮説を裏付けていた。ファンはアルバムにおカネを使わず,大規模な音楽フェスに向かい始めていた。バナルー,コーチェラ,その他のフェスはさまざまな人気アーティストを呼び込んで,永遠のウッドストックのように多くのファンが詰めかけ,1999年から2009年にかけて北米のコンサートチケット売上は3倍になった。多くのミュージシャンがレコーディングよりツアーから多くの収入を得るようになってきた。
スティーヴン・ウィット 関美和(訳) (2016). 誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち 早川書房 pp.301-302
ジョブズは合法的な有料ダウンロードのサービス立ち上げに全力を注いだ。ブランデンブルクやモリスと同じように,ジョブズもまた知的財産から莫大な富を築いていた(自分自身の特許とは限らなかったが)。もともとiPodはiTunesストアを補完するデバイスになるはずで,ジョブズは違法ファイルを減らしてその価値を下げるため,AACへの転換を押していた。だが,2000年代にアップルが勢いを持ったきっかけは,ナップスターで得た不正ファイルを堂々と持ち歩けるようにしたからだった。音楽の海賊行為が90年代版の違法ドラッグのようなものだとすれば,アップルの発明はマリファナパイプと同じだった。
スティーヴン・ウィット 関美和(訳) (2016). 誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち 早川書房 pp.202
そのうえ都合のいいことに,パッケージラインは時間のかかる複雑な工程になっていた。mp3はCDと音質が変わらないだけでなく,いくつもの点で優れていた。かさばらず,おカネもかからず,永久にコピーし続けられ,壊れることもない。CDは傷がついたり,割れたり,パーティーで盗まれたりするけれど,mp3は永遠だった。するとCDが勝てるのは,ただ目で見て触って嬉しいという点だけだ。つまりユニバーサルが売っていたのは,パッケージだった。
スティーヴン・ウィット 関美和(訳) (2016). 誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち 早川書房 pp.179
ジョブズはAACへの全面的な切り替えを望んでいた。話し合いの中でジョブズは,AACが次世代の技術で,非効率で妥協の産物だった旧世代のフォーマットを置き換えるためにブランデンブルク自身が開発したものだと正しく主張していた。実際,アップルがあまりにもAACを押していたので,これをアップルの発明だと誤解するユーザーも多かった。ブランデンブルクはリンデと組んで,アップルに対抗するように押し返した。mp3はもうスタンダードとして確立されていた。切り替え費用は高くつきすぎた(ブランデンブルクは自分の分け前については触れなかった)。
勝負は簡単についた。2000年に力を持っていたのはファイル共有者だ。アップルはまだ二流のメーカーで,業界では鼻であしらわれるような存在だった。大規模なフォーマットの切り替えを先導できるほどのユーザー数も持ち合わせていなかった。最初のライセンス会議の当時,アップルはパソコン市場の3パーセントしか持っていなかった。時価総額が23倍のマイクロソフトでさえ切り替えは不可能だった。アップルにその可能性があるとは到底考えられなかった。
スティーヴン・ウィット 関美和(訳) (2016). 誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち 早川書房 pp.174
仕上げは拡張子を決めることだ。ウィンドウズ95のファイルの拡張子はアルファベット3文字と決まっていた。画像ファイルにはipgやgifといった耳慣れない拡張子がついていた。グリルはある時点でブランド名を変えようと訴えた。MPEGオーディオレイヤーIIIなんてやめた方がいいし,えこひいきばかりの企画委員会とも距離を置ける。でも議論の末に,やはり伝統を守って拡張子をmp3に決めた。スティーブ・チャーチがアメリカで売り込んでくれていたおかげで,mp3はすでになんらかのブランドとして認められてもいた。MUSICAMのウィンドウズ向けアプリケーションの拡張子はmp2だった。それはMPEGがくれた思いがけないおまけだった。mp2とmp3はお互いに競い合って同時に開発された技術だったが,名前を見るとmp3がmp2の後継技術のように見えた。フラウンホーファーにとっては都合のいい誤解だった。
スティーヴン・ウィット 関美和(訳) (2016). 誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち 早川書房 pp.84-85