また日本語では対話や議論が対立的になりにくいもう一つの理由は,自称詞と対称詞が多くの場合話し手と相手の間の上下関係を構造的に取り込んでいるからだと思います。父親と議論するような場合,相手を「お父さん」と呼ぶことは,そのことで自分を息子つまり相手の目下と自己規定してしまうわけですから,初めから立場が弱いわけです。あるアメリカの論文で,父親をどう呼ぶかの調査の対象となったある青年が,自分は父親と議論するときは,絶対に Father と呼びかけることはせず,一貫して you を使うことにしていると答えていますが,日本語では言語上これが出来ないのです。
パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.332-333 (Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.) Tweet
また,少なくとも幸福感についての信条は,一部文化的起源があることはいなめないであろう。たとえば,アメリカでは「元気?」という挨拶に「疲れているの」とか,「忙しすぎて死にそう」だとか弱音を吐いたり,同情を求めるような態度を一部のケース(家族と真の友人)以外では見せてはいけない。弱音を吐いていると,友達になったら「お荷物」になりそうな,面倒な人間と見られる可能性が高く,アメリカ人からは避けられる可能性が高い。アメリカでは,弱音を吐かず,いつも元気で幸せでいる人がうまく生きている人であり,友達になり甲斐のある人物なのである。そうであるから,できるだけ明るく,幸せに振る舞わなければ,というプレッシャーも自然と生まれる。また,このため,自分の人生を振り返る際も,良かった出来事に焦点を当て,自分の人生は全般的に肯定的であるという信条を持ち,その信条と一貫性のある自己報告をすることになることが多いのであろう。まさに,“Don’t Worry, Be Happy!”なのである。