文法に生まれつきのメカニズムが関与しているという主張は「クレオール化」と呼ばれる現象にも基づいている。植民地の拡大が続いた帝国主義時代,ヨーロッパの商人や入植者たちは,先住民族と「ピジン語」と呼ばれる間に合わせの言葉でコミュニケーションを取った。ピジンには実質的に文法がないといってよい。時制もないし,a や the といった冠詞もない。しかし,商売上のやりとりのような簡単な情報の伝達には十分に役に立つのである。ピジン語を複雑にすることもできる。しかし,複雑さの質が統語を使用した言語とは違っている。ピジン語の複雑さは,単語の連合による単純増加型のものである。ソロモン諸島のピジン語で,チャールズ皇太子は「ミサスクインのピキニーニ(pikinini belong Missus Kwin)」であり,ダイアナ妃は「ミサスクインのピキニーニのメリ(Meri belong pikinini belong Missus Kwin)」であった。少なくとも彼女の離婚まではそうだった。離婚後,彼女の肩書きはさらに格上になった。「このメラヘリはミサスクインのピキニーニのメリがおしまいになったもの(this fella Meri be Meri belong pikinini belong Missus Kwin bim go finish)」。 ハワイで行われた研究から,ピジン語が世代を経るとさらに洗練されることが分かった。この洗練されたピジン語を「クレオール語」と呼ぶ。ピジン語と違い,クレオール語ではきちんとした文法がある。クレオールの文法は赤ちゃんの脳から生まれてくるのである。クレオール語の文法の誕生に必要なことは,赤ちゃんをピジン語に触れさせることだけだ。なんと,両親の助けがいっさいなくとも子供たちは文法を勝手に創り上げてしまうのだ。これには子供たちの脳に組み込まれた本能的な文法機構が関与していると思われる。
ところで日本でよく引用されるフランスの哲学者パスカルの言葉に「もしクレオパトラの鼻がもう少し低かったならば,世界のあらゆる様相は違ったものになっていただろう」<Le nez de Cleopatre: s’il eut ete plus court, toute la face de la terre aurait change.>というのがあります。この発言の解釈は色々あるようですが,私が今ここで指摘したいことは,多くの人がこの原文のフランス語を「クレオパトラの鼻がもう少し低かったならば」と訳しているのは誤訳ではないかということです。フランス語では plus court つまり<もっと短かったら>となっているのに,日本人は日本語で<鼻が短い>とは絶対に言わないため,フランス語としてはあり得ない<低かったら>に変えてしまったのです。その結果として鼻が高いことを何よりもよしとする日本文化特有の立場から,<クレオパトラは鼻の高い美人であった>,そこでもし鼻が低かったならば,つまり<余り美人でなかったら>,アントニウスが恋におちることにはならなかったかもしれない,そこで世界の顔は違ったものになった,つまりローマとエジプトの力関係が変わった可能性があったと言うわけです。