だが,研究として,これは見込みある方向だろうか?そうした研究は,なぜ宗教があるのか,そしてなぜそれがいまあるような宗教なのかについて理解を深めてくれるだろうか?私は,脳を調べてそのはたらきがよく理解できるようになれば,多くのことがわかるようになるとは思う。しかしそれは,自分たちが理解しようと思っているものがなにかを知っているという前提に立てばのことであって,この場合にはそれがはっきりしているとは言いがたい。アナロジーで考えてみよう。どのようにして脳のなかのプロセスが私たちにすぐれた投擲能力を与えてくれるのかを理解したいとしよう。ほかの大部分の動物種と比べて,ヒトは,目標めがけてものを投げるのがとりわけよくでき,しかも命中率にすぐれ,訓練しだいでその能力を高めることもできる。確かに,アーチェリーやダーツ投げのチャンピオンの技は驚異的だ。ここで,この能力について,ヒトとチンパンジーの投擲能力の差を説明しようとする場合,チャンピオンだけを調べるだろうか?チャンピオンがどのようにしてそれをやってのけるかはもちろん興味深いが,ここでの問題はそういうことではない。(親になったことのある人ならよく知っているように)子どもはみな,幼い頃からある程度ものを投げることができることから,チャンピオンの驚異的能力もこの共通の能力に由来するのは間違いない。明らかに,幼児の目と手の動きの精妙な連動を生み出すのは,チャンピオンの技ではない。
ウィリアム・ジェイムズや彼に続く多くの人たちは,宗教はこれとは逆にはたらくと考えた。すなわち,何人かの非凡な人々が宗教的概念を作り上げ,一般大衆がそうした概念を俗化させるのだという。この見解によれば,見えざる超自然的行為者,死後も存在し続ける魂,妖術師に遠くから操られる意識をもたないゾンビ,バナナの葉に乗って飛び回る特別な臓器といった概念はまず,強烈な体験をした何人かの有能な個人によって生み出され,それからそれが説得力をもち,心をとらえるものであったがゆえに,ほかの人々もそれらの概念(より穏やかになり,体験的色彩も薄まっているが)をもつようになったのだ,という。
しかし,この説明は誤りをいくつか含んでいる。第一に,ほとんどの宗教的概念では,こうしたことが起こったという証拠はない。私たちの知るかぎりでは,胃にエヴールがついている人もいるというのは,霊感豊かなファンの予言者が言い出したのではなく,人々どうしが不思議な話を何千回となく話すうちにしだいに洗練されていったのだろう(ちょうど都市伝説や,流布する噂がしだいに一定の形をとるように)。しかし,なんらかの新しい種類の宗教的概念を考え出すような場合でさえ,人々がすでにそうした概念の形成を助けるすべての認知的装備をもっていないかぎり,それらの特殊な概念が意味をもつことはないし,影響を与えることもないはずである。たとえ予言者が新しい宗教的情報の主要な発信源だとしても,予言者でないふつうの人々の心がその情報を特定の宗教に変える必要がある。私たちは,たとえば,アフリカの混淆宗教で霊感に打たれた新たな予言者が説くように,伝統的な先祖とキリスト教の天使とが同じ人物だと主張することもできる。しかし,これが意味をもつためには,人々が見えざる超自然的行為者をイメージするという傾向をあらかじめもっていなければならない。例外的な人々を研究することでは,宗教がなぜ広まるのかがわかるようにならない理由は,これである。だが,宗教が通常の認知能力からどのように生じるのかを考えることによって,宗教全般についても,また予言者やほかの宗教的天才能力者についてもよくわかるようになる。
パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.402-403
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)
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