こうした対立を回避するもうひとつの方法(一部の科学者の間ではとりわけポピュラーだが)は,純化した宗教を作り上げるというものである。その形而上学的教義は,宗教的概念のいくつかの側面(創造する力というものが存在し,私たちはその力を知るのが難しいが,その力こそがなぜ世界がいまあるようにあるのかを説明する,など)を救うが,不都合な「迷信」(たとえば,神様は私の話すことを聞いてくださっている,人は自分のおかした罪への罰として病にかかる,儀式を正しく執り行うことがきわめて重要だ,など)のすべての痕跡を消し去ってしまう。そのような宗教は科学と両立するだろうか?もちろん両立する。というのは,それがまさにその目的のために作られているからである。しかしそれは,私たちが通常宗教と呼ぶものになりうるのだろうか?まずなりえない。人々は,社会の実際の歴史において,実際場面での認知的理由から宗教的思考をしてきたのだ。これらの宗教的思考は,あるはたらきをする。死や誕生や結婚といった状況について適切な説明を生み出すのである。そういった人間的な目的や関心事に手を汚さない形而上学的「宗教」は,エンジンのない自動車のような市場価値しかない。
パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.416-417
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)
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