私たちは,過去に暮らしたあらゆる人々よりも,遥かに豊富で大量で良質の情報を居ながらにして得られる恵まれた環境にあるはずだ。しかし,それら先人の暮らしより遥かに文明的で安全であることは差し措いても,どれだけ幸福な生活を送ることが可能となっただろうか。情報通信の技術革新が,私たちの抱える問題を直接解決してくれる技術ではなかったとしても,その一助となっているのであれば,私たちの社会はもっと協調的で穏やかで安寧に満ちたものになっていたはずである。
実際には,各人の利害は情報技術の進展によってより先鋭化し,競争は激化し,対立構造が顕著になっている。所得の大小で経済格差が拡大していると喧伝されたり,エリート教育をめぐる是非,老人と若者の世代間対立といった,社会の土台における対立構造だけではない。ワードショーで語られる犯罪者のプロファイルでは,その個人がオタク的小児性愛趣味を持っていたというだけでゲームやアニメが悪者に仕立て上げられる。これは,視聴者がこれらの属性を持たず,遠い存在であるから平気で叩けるのである。社会の中で,遠くにあるものが常に脅威として映し出され,同じ共同体の中で暮らす同志としての帰属意識は,社会問題を考える上であまり表出されることがない。
情報化社会が進展したにもかかわらず,私たちが生きていく上での見通しは曖昧模糊とした茫洋のただ中にある。下手をすると,隣人がどのような人々であるかすら知らない。手を伸ばせば情報を得ることができるにもかかわらず,日常に氾濫する情報の海の中で,身の回りのことすらろくに知ることのない現代人が量産されているのが実状ではないだろうか。
山本一郎 (2009). ネットビジネスの終わり:ポスト情報革命時代の読み方 PHP研究所 pp.144-145
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