「それって其処に何が見えるかは,見る者次第と云うこと?善悪はそれを用いる者の心次第と云うこと?」
「それこそ詭弁だよ。犯罪,人道,科学,それらの相は皆別だと云っている。それぞれの相が世界や社会や世間と別の関わり方をしている。だから科学に善悪を持ち込むことは間違いだ。況て,明るい暗いなどと云う漠然とした判断基準は個人的なもの,精精世間が共有する幻想じゃないか。例えば敗戦濃厚な国の人人にとって,原子爆弾は明るい未来明るい科学と云うことになるだろ?」
「それこそ詭弁じゃない」
「そうじゃないさ。何と云っても,国が滅びかけていて,自分も家族も殺されそうだと云うその時に,形勢逆転の可能性を与えてくれる切り札になり得る兵器が出来たとしたら——それをして明るい未来と夢想すること自体を間違っているとは云えないだろう。法律違反でも条約違反でもないなら,糾弾も出来ないだろうね。しかし,所詮原子爆弾は大量殺戮兵器でしかないんだ,そんなものは人道的に認められない,あるべきでない,作るべきでないと云う考え方は至極尤もな正論だろう。核兵器を必要とする社会と云うのは,矢張り間違っているんだよ。でも——だ。だからと云って,核分裂を物理的な力に転用すると云う発明自体は貶められるものじゃないだろうし,理論そのものは誰にも否定出来まい」
京極夏彦 (2009). 邪魅の雫 講談社 pp.544-545
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