この過剰な清潔志向の行く末に,どんなおそろしい事態が待ち受けているのか。ひとつ考えられるのは,病院で発生するブドウ球菌のような一般的な細菌が,現在使われているほとんどすべての抗生物質への耐性を増すことだ。だが,ここまでおそろしい予測ではなくても,私たちの細菌に対する不安は,まったく事実無根である場合もある。新聞や雑誌でよく見るのが,歯ブラシが汚い微生物の繁殖の温床になっていて,特に病気の時に使った場合は再感染を防ぐためにも,こまめに歯ブラシを替えるべきだという記事だ。2週間ごとに取り替えるべきだと勧める消費者団体も多数あるし,抗菌歯ブラシの清浄器を売る業者は,現代の洗面所のことを,有害なばい菌がうようよいる「屋外便所」と呼んで,そんなところに歯ブラシを置かないようにと警告している。そのウェブサイトを見ると,歯を磨くたびに口の中に入る細菌についてのおそろしい説明がたっぷり書いてある。「細菌は歯ブラシで育つ」と,ある記事は警告している。
でも,ちょっと考えてみてほしい。たとえば風邪にかかったとすると、悪いウイルスが口の中の細胞だけでなく、体の表面のさまざまな場所にいることは確かだ。病気に対抗するために、免疫系がウイルスを無害にする抗体を生産する。抗体はその風邪に対する記憶をもっているので、再び同じ病気にかかった場合に、同様の抗体がすぐに出動し、敵を撃破してくれる(戦争にたとえるのは嫌だと前に書いたのはわかっているが、こう表現するほうが伝えやすいので)。風邪の場合、最初の免疫反応は1週間ほどで現れる。つまり,幸いにして,歯ブラシなどから同じ病原体に再感染することはできないのだ。もし再感染できるとなると,口から出たウイルスなどの微生物が,病気の無限のサイクルをつくってしまうだろう。ほかの病気に感染したとすると,病原体は歯ブラシの助けを借りなくても,体の随所にある入口から簡単に入ってこられる。そもそも体内には無数の微生物がすんでいる。歯ブラシに付いているのはそこから出たわずかな数の細菌なのに,それらを殺す意味はあるのだろうか。
マーリーン・ズック 藤原多伽夫(訳) (2009). 考える寄生体:戦略・進化・選択 東洋書林 pp.80-81
(Marlene Zuk (2007). Riddled with Life: Friendly Worms, Ladybug Sex, and the Parasites That Make Us Who We Are. Orland: Houghton Mifflin Harcourt.)
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