ラマルクの名は,広くは進化論の「用不用説」によって知られている。「キリンの首が長いのは,高い木の葉を食べるためにとだんだん長くなって子孫に伝えられてきた」というたとえで知られた説だ。「獲得形質の遺伝」とも呼ばれる。
もっとも,この説は今日ではダーウィン進化論と比較されて,間違った説であると教えられる。しかし,ラマルクがダーウィンに先がけて進化論的なアイデアをもっていたことは忘れないでいたほうがいいだろう。
ラマルクは,1744年,フランス,ピカルディのバザンタンで,11人兄弟の末子として生まれた。
成長すると,父の意向で教職課程についたのだが,父の死をきっかけにフランス軍に入った。22歳のとき,病を得て退役したラマルクはわずかな恩給だけしかもらえず,金融業を手伝ったり,医学の修行をしていた。そのうちに,軍にいたときに地中海の豊かな自然のなかで興味を抱いた植物学を思いだし,本格的に植物研究にのめりこんでいった。やがて,植物学の縁で,かのジャン・ジャック・ルソーと知り合い,交遊を続けた。屋根裏部屋の生活をしながら植物学に打ち込み,10年後,『仏蘭西植物誌』を上梓した。
このころには,ラマルクはビュフォンと知り合っていた。ビュフォンの子息の家庭教師を頼まれたりしている。そして,ついに王立動植物園の教授に就任した。しかし,時あたかもフランス革命が勃発し,ラマルクは職をおわれそうになったりもする。やがて,ラマルクは植物学ではなく動物学の担当となる。かくして,ラマルクは動物学に熱中し,『無脊椎動物分類誌』『無脊椎動物誌』などを発表する。そして1809年,不朽の名著『動物哲学』の刊行にいたるのである。
今日,生物学でよく使われる「系統樹」をはじめて考案したのもラマルクであった。
だが,『動物哲学』刊行後10年にしてラマルクは失明し,最後は次女ただ一人の世話を受けながら,貧窮のうちに世を去った。
久我勝利 (2007).知の分類史:常識としての博物学 中央公論新社 pp.61-62
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