マリリン・モンローはどんな顔をしているだろう。ためしに説明してみるといい。金髪。にっこり笑っている。ほくろがある。そのとおりだ。だが,もっと詳しく説明できるだろうか。たいていの人はそれ以上言えないが,写真を見せられれば,いや,たとえ写真の一部分でも見せられれば,すぐに彼女だとわかる。
それでは,自分の家族の顔はどうだろう。上司は?同僚は?隣家の男の子は?知っている。もちろん知っているのだが,言葉で表すことはできない。顔のごく細かいところまで表現するのは不可能だ。たとえそういう細部のたった1つでも見れば,誰の顔か思い出すには十分であるにしても,だ。
イギリスの哲学者マイケル・ポラニーは,1950年代にこの現象を<暗黙知>と表現した。私たちは,知っていることの大半を言葉で言い表すことができない。顔の例はポラニーが引き合いに出したもので,その見解をスウェーデンの哲学者イングヴァル・ヨハンソンがこうまとめている。「人は,たとえばある顔に注意を向ける時,同時に,その顔の細部からは注意をそらしている,とポラニーは言う。私たちは,暗黙知のあるものからは注意をそらす。知識がある時には,つねに何かしらに注意を向けているわけだが,もしそうなら,必然的に何かから注意をそらしていることにもなる,と言えるかもしれない。仮にも知識というものが存在するのであれば,暗黙知は不可欠である」
トール・ノーレットランダーシュ 柴田裕之(訳) 2002 ユーザーイリュージョン:意識という幻想 紀伊国屋書店 p.366-367.
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