1750年になるまで,99.9%の聾者は,文字を読むことや教育を受けることに希望を抱くことすら許されなかった.18世紀の終わり頃,フランスで手話が正統な言語であると認知されはじめるまで,この認識に変化はなかった。変化が起きたのはド・レペー師の影響が大きい。彼は神の言葉を奪われた聾唖者の魂を,聖書と公教要理を使って救おうと決意した人物だった。ド・レペー師はパリの路地裏にいる聾者が互いに出し合うジェスチャー・サインの巧みな動きにたいへん感心した。そして,コンディヤックの仮説を再び提唱したのだった。「あなたがた学者はあらゆる言語に共通する普遍言語を探し求め,見つからないため絶望しています。しかし,それはここにあるのです。まさにあなたの目の前にあります。そう,それこそが貧しい聾者がおこなっている模倣なのです。それお知らなかったため,あなたは模倣を馬鹿にしていたでしょう。しかし,聾者の模倣こそがすべての言語に対する鍵を与えてくれるものです」。これを聞いたら,拍手をせずにはいられない。やがてド・レペー師は1755年に聾者のための学校を設立した。そして,聾の生徒たちが自然に使っている手話を組み合わせて手話の文法を作り,学校で読書を教えるようになった。そう,聾教育がはじまったのだ。この施設は公的な支援を受けた最初の聾学校となり,1791年に国立パリ聾唖学校となった。
この素晴らしい試みが広がるには少し時間がかかった。1816年に,この学校の生徒であったローラン・クレークはアメリカに渡った。彼の知性と博識に対し,アメリカの人たちはすぐに好感を持った。そして1817年にハートフォードでトーマス・ギャローデットとともにアメリカ聾教育施設を設立した。この施設が現代へ連なる手話教育の伝統を創り上げることになった。彼らはアメリカ手話の開発も行った。アメリカ手話はクレークによってフランスから紹介されたものとアメリカで現地の聾者が使っていたものを組み合わせたものだった。1864年にアメリカ議会はコロンビア盲聾唖教育施設を国立聾唖大学に格上げする議案を通過させた。そしてその後,初代校長であるエドワード・ギャローデットの名を取りギャローデット大学(Gallaudet College)と名付けられた。ちなみにエドワードはトーマス・ギャローデットの息子である。さらにその後ギャローデット(総合)大学(Gallaudet University)へ変更された。現在でも,聾者のためだけに教養教育を行う世界で唯一の大学である。
マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.175-177
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