実際の使用において,同じと認識される音素でも物理的にはさまざまな違いがある。決して単一の音ではない。まずはじめに,個人個人で声が違う。だから厳密に言えば,私達は全員が異なった音素で言葉を発している。さらに,同一人物が発する音素ですら,文脈に依存した違いがある。例えば,物理的な音のパターンからすると,「fish」の/f/音と「coffee」の/f/音は同じではない。「bonnet」の/b/音と「bed」の/b/音もやはり違う。そういわれてもピンとこないかもしれないが,物理的に測定すると確かに違う。つまり,私たちには物理的には異なる音素でも,同じものとして聞いてしまう傾向があるのだ。実は,音響スペクトログラフという装置が発明されるまで誰もそんなことは知らなかった。この装置は,時間経過に従って,測定した音の周波数帯域を視覚的に出力するものだ。つまり,音に含まれる情報を正確に視覚情報として理解できる。この装置の出力を見てみると,多くの音素が,たとえ私たちにはっきり聞こえたとしても,音響スペクトログラフに記録すらされていないことが明らかになった。また,同じと考えられていた音素が周波数的には全く違うこともあった。技術的には,発話される実際の音は「単音(phones)」と呼ばれる。これが,音響スペクトログラフで記録されるものだ。一方,音素(phonemes)は単音の抽象的カテゴリーである。極めて抽象的なものと言ってよい。
マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 p.194
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