単語が異なると,同じと認識される音素でも物理的には異なっている。これはいわゆる「同時調音」と関連する。「bonnet」の/b/音と「bed」の/b/音が違うのは,次の音である/o/(あるいは/e/)を出すために唇と口の形がすでにでき上がっているからだ。そのせいで実際に出てくる音が変わってしまうのだ。鏡の前に立って,「bonnet」と「bed」を言うときの口の動きを注意してみて欲しい。口が違う動きをしているのが見えるだろう。/b/音の違いをほとんど聞き取れないのは,脳の素晴らしい補完能力(あるいは偽装能力?)のためである。実のところ,/b/音は,別の有声音の音素が後に続かなければ,適切に発音することなど全くできない。つまり,音素は完全に文脈や状況に依存したものだと言ってよい。特に驚くべき差が子音にある。この差は前あるいは後に付く母音によるものだ。例えば,「rob(奪う)」と「rod(棒)」という単語について考えてみよう。これらの単語を単独で発声するとき,あるいは,文末で発声するとき,最後の音素はたいてい発音されない。ただし,発音はされないが,前にある母音をほんの少しだけ変調させる。つまり,発音はされないが前後の音には確かに影響を与えるのだ。私が考えるに,この区別は話し手の口を見ていることでしかできないだろう。「rob」の時は最後に口が閉じ,「rod」の時は口が開いたままである。逆に「bog(沼地)」と「dog(犬)」のような単語は/b/と/d/の音は遥かに区別が簡単だ。まるで違ったように発音できるだろう。このように見てくると,音素には,特にいわゆる破裂音と呼ばれる/b/,/d/,/g/,/p/,/t/,/k/には,幽霊のような性質があることが分かる。ちょうど存在しているのか疑わしいという点で幽霊にそっくりだ。こんな幽霊が出てきてしまう理由は,それぞれの音素があまりにも激しく変化するためだ。何しろあまりにも変化が激しいので人間の音声言語を正確に聞き取るコンピュータが作れない位である。人間の脳はこの問題を実にエレガントに解いている。ただし,誰もその仕組みをきちんと理解できていない。
マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.194-195
PR