ナチスのユダヤ人迫害政策は,世界各国の非難を浴びたが,だからといって世界各国が進んでユダヤ人に救済の手を差し伸べたかというと決してそうではなかった。世界恐慌でたくさんの失業者を抱えていた欧米諸国は,ユダヤ人移住の制限を行なっており,一部の国ではユダヤ人流入に対する激しいデモも起こっていた。
1938年7月にはフランスで,ドイツにいるユダヤ人救済に関する会議が開かれた。ドイツのユダヤ人は,ドイツを離れようにも,受入国がなかなか見つからなかったのだ。そこでアメリカが音頭をとって,32ヵ国の代表を集め,この問題の解決策を講じようとしたのである。
しかしこの会議は失敗に終わった。ナチスが移住先の国から1人当たり250ドルの支払いを求めるなど厳しい条件をつけていたこともあるが,各国ともこれ以上移民を受け入れることには慎重だったのだ。
1939年の5月にはドイツの定期船「セントルイス」に乗り,裕福なユダヤ人が受け入れ国を探してハンブルグを出発した。大西洋を渡ったが,キューバとアメリカに下船を拒否され,ふたたびヨーロッパに戻ってきた。5週間も洋上をさまよったあげく,ようやくベルギーのアントワープで下船することができた。結果的にイギリス,ベルギー,フランス,オランダで何人かの難民が受け入れられたが,マスコミはこの船を「のろわれた船」と呼んだ。
武田知弘 (2006).ナチスの発明 彩図社 pp.167-168
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