まったくゼロの状態から文字システムを考案することは,既存のシステムで使われているものを拝借するのにくらべ,比較にならないほどむずかしい。発話,つまり,コミュニケーションの目的で人間が発する一連の音素を最初に文字で表そうとした人は,いま,われわれがあたりまえと思っている言語学的法則を,自分で見つけださなければならなかった。たとえば,区切りのない音の連続的なつながりに聞こえる発話を文字で表すためには,その発話を記述可能な単位要素の並びにまで分解できなければならない。表記対象が音素であれ,音節であれ,あるいは単語であれ,この過程を省略して,発話を表記できる文字システムを作りだすことはできない。また,人の発話は,誰でも同じではない。話し声の大小,甲高さ,しゃべるスピードなどは各人各様である。だが,そうした発話上のバリエーションは意味に影響せず,文字での表記においては無視できる。そんなことでさえ,最初に文字システムを考案した人は自分で気づかなければならなかった。そのうえで,単位要素として取りだされた音を記号で表す方法を考案しなければならなかったのである。
ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.18
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