戒名のなかに使われることばは,どれも基本的に仏教の教えとは関係しない。たとえば,山本五十六の「大義院誠忠長陵大居士」という戒名を眺めてみたとき,仏教の教えを彷彿とさせる文字は使われていない。むしろ,義,誠,忠といった文字は,儒教と関連しているように思える。仏教の各宗派が,自分たちの養成する僧侶に戒名のつけ方を教えないのも,戒名と仏教信仰との関係が明確ではなく,むしろ縁がない可能性が高いからである。
このように,戒名の実態は,仏教界での建て前とは大きくずれている。戒名を,仏教徒になった証,ブディスト・ネームとしてとらえるには明らかに無理がある。無理があるからこそ,生前戒名を勧める動きも,さほど広がりを見せていないのである。
院号がインフレ化し,戒名料が高騰するのも,戒名の本質が,死後の勲章だからである。勲章なら,できるだけ立派で,見栄えのいいものがいい。そうした見栄や名誉欲が,戒名問題の背景にある。そして,立派な戒名が,葬式を贅沢なものにしていくのである。
島田裕巳 (2010). 葬式は,要らない 幻冬舎 pp.118-119
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