なぜギリシア人は確率の理論をつくらなかったのだろうか。未来は神々の意志にしたがって開かれると多くのギリシア人が信じていたから,というのが1つの答えである。たとえば,もしアストラガリ投げの結果が,「バラック校舎の裏でのレスリングでお前を押さえ込んだ,あのがっしりしたスパルタ娘を娶れ」ということであれば,ギリシアの若い男はけっしてそれをランダムなプロセスの幸運な(あるいは不幸な)結果だとは見なかった。それを神の意志と見た。そうであるなら,ランダムネスを理解するなどというのは筋違いのことであり,ランダムネスの数学的予測などというのは不可能だったと思われる。
別の答えは,ギリシア人を偉大な数学者に変えたあの哲学そのものにある。彼らは,論理と公理によって証明される絶対的真実を主張し,不確かな見解に異を唱えた。たとえばプラトンの『パイドン』で,シミアスがソクラテスに「確率の議論はペテン師のすること」と言い,「確率を使う際に十分な注意が払われないなら,それは人を欺くものになりかねない——幾何学においても他のことにおいてもそうである」と指摘し,カーネマンとトヴァスキーの研究に先鞭をつけている。また『テアイテトス』の中でソクラテスは,「幾何学で確率や見込みを議論するような数学者は,一流数学者の名に値しない」と述べている。
レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.45-46
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)
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