私はつねづね,この他人の心を理解する仕組みのモデルはあまりに複雑にすぎると思っていた。それに,まあ当然ではあるだろうが,この説を提唱する人々(もちろん学者のこと)の一般的な思考様式に,この説明自体が瓜二つなのもいただけない。私が理論説に疑念を抱くのは,わたしたちが他人の心理状態をほとんど淀みなく,とくに深く考える必要もなしに理解しているのをこの目で観察してきているからだ。私たちがもっとずっと単純な,はるかに労力の少ない方法で仲間の心理状態を理解できるようにと,自然はそう取り計らってきたのではないか——こんな考えをセミナーなどで紹介したいときに私がよく使うのは,<ハリー・ポッター>シリーズの第5巻,『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』に出てくるハリーとセブルス・スネイプ教授の会話である。(おそらくほとんどの親と同じく,私のこのシリーズを娘の命令で読みはじめたものの,すぐに自ら夢中になってしまった)。この場面では,じつにいやらしい魔法使いであるヴォルデモート卿が,自分の悪の計画に利用するための重要な情報を得ようとして,ハリーの心の中に入り込まんとしている。一方,スネイプ教授はハリーに「閉心術」なるものを教えることになっている。読んで字のごとく,他人が自分の心の中に入り込むのを阻止できるようにする術だ。
「闇の帝王は……他人の心の中から感情や記憶を引き出す技術に非常に長けている」
ハリーはびっくりして,興奮した声で言う。「彼は心が読めるのですか?」
「きみには機微というものがないのかね,ポッター……『心を読む』なんて言うのはマグルだけだよ。心は本ではないのだ」
私は決してスネイプが好きではないが,彼のハリーへの返答は,他人の心の理解についての私の見解をみごとにまとめてくれていると言わざるを得ない。そう,心は本ではないのだ。私たちは他人の心を「読んで」いるのではないと思うし,こういうプロセスをどう捉えるかについての先入観がすでに含まれているような言葉を使うのはやめるべきだと思う。たしかに私たちは世界を読み解いているが,決して他人の心を——この言葉が使われる通常の意味では——読んでいない。
マルコ・イアコボーニ 塩原通緒(訳) (2009). ミラーニューロンの発見:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 早川書房 pp.94-96
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