専門家集団の内外にいる多くの人は,ヒューマンエラーが犯罪として扱われる傾向をやっかいなことであるとみなしている。もし,裁判が社会に奉仕するために存在するなら,ヒューマンエラーを訴追することは,極めて根本的な部分でその足かせになるだろう。長期にわたって,エラーを犯罪,あるいは有責の過失として扱った場合,安全の仕組みは脆弱になるだろう。エラーを犯罪化したり,民事賠償を求めたりすると、次のようなことを生み出す。
・安全に関わる調査の独立性を損なう。
・安全と危険が紙一重である業務に就いている人々に、注意深く仕事をする意識よりもおそれを植えつける。
・組織は、業務そのものに注意深くなるよりも、文書記録を残すことに対して注意深くなる。
・当事者からの証言が得られにくくなることによって、安全監査官の仕事がやりづらくなるし,報告書には検察官の関心を惹かないように配慮された文章が並ぶことになる。
・公正や安全に寄与しない司法手続きに費用がかかることによって、税金が浪費される。
・金銭的な賠償よりも、当事者の謝罪や、人が傷ついたことについての認識を求める被害者の願いを無視することになる。
・真実を語ることをためらわせ,その代わりに,専門家仲間のかばい合いや言い逃れ,自己防衛を助長する。
シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.176-177
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)
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