ほとんどの国で容疑者の宣誓証言は法廷で証拠として採用される。興味深いことに,裁判所は自白に対してかなりの程度,あるいは全面的な関心を示す。否認は概して説得力がないようだが,容疑者が「罪」を告白すると,それは有罪判決に十分な証拠となり得る。他の証拠は必要とされないくらいである。
それによって何が起きるかというと,警察あるいは調査機関が時として容疑者がある特定の事柄を思い出す「手伝い」をしようとし,あるいはある特定の言い回しでそれを証言させようとすることである。加えて,国によっては,裁判所は尋問記録の要約のみを検討する。それは検察が被疑者を実際に取り調べてから難か月も後に作成された可能性があり,被疑者が言いたかったことと,裁判官もしくは陪審団が記録から読み取ったものとの隔たりは極めて大きくなる。
このために,被疑者が自分はカフカ的不条理のプロセスに捕らえられていると感じても不思議はない。彼らは自分が知らないか理解していないことで告発されている。なぜならば,彼らは自分の世界,自分の専門知識を作りあげている言語とは全く異なる言語の中に放り込まれたのだから。
シドニー・デッカー 芳賀 繁(監訳) (2009). ヒューマンエラーは裁けるか—安全で公正な文化を築くには— 東京大学出版会 pp.187-188
(Dekker, S. (2008). Just Culture: Balancing Safety and Accountability. Farnham, UK: Ashgate Publishing.)
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