ところが,こうした比較の重要性を充分に認めたとしても,現実にはそれが不可能なことの方が多い。選択時の成績が合格点に達しなかった人は,その後実際に大学で勉強したり,会社で働いたりできないのだから,そうした不合格者のうちの何割かが,実際に成功者となりえたかは知りようがないのである。面接で悪い印象しか与えなかった者は仕事にありつけず,入試成績が低かった者は有名大学には入れない。研究費申請が受け入れられなかった研究者は,わずかな研究費だけでみじめな研究しか行えない。こうした「不合格」グループが,もし不合格にならなかったとしたときにどの程度成功したか,についての情報が得られないために,選択が正しかったかどうかの評価は,「合格者」グループが実際にどれくらい成功するかだけを基になされることになる。しかし,すでに見たとおり,この方法での比較は,正しい評価方法ではない。もし,もともと成功率が高い場合(つまり,選択時に基準以下の成績であった人々の中にも,多くの成功者が出てくるような場合)には,選択基準がその後の成功の予測にまったく無関係であっても,その選択基準が適切であったと誤った結論が出されることになってしまう。応募者の能力水準が高く,選択時のテスト成績とは無関係に,ほとんど全員が成功するような場合には,こうした誤った結論づけが特に起こりやすくなる。きわめて優秀な人々だけが応募してくる会社や大学や研究助成機関では,採用担当者は,彼らの決定結果がすべて成功に結びつくため,自分たちが用いている人事採用手続きや入学試験方法や研究助成方針が,きわめて効果的なものであると確信するに違いない。しかし,採用されなかった応募者がどういうことになったかを知りえない限り,こうした結論は不確実なものであると言わざるをえないのである。
T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.63-64
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)
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