自己成就的予言の限界をよく示す例として,標準的な「囚人のジレンマ」ゲームを多数回繰り返す実験がある。ゲームの説明を聞いた後,参加者はこのゲームにどんな姿勢で望んだら良いかについての意見を述べるよう求められる。「協調者」と呼ばれるタイプの参加者は,このゲームのポイントは,もう1人の参加者と協力して,2人の利益の合計を最大にするよう努めることであると答えるだろう。一方,「競合者」と呼ばれるタイプの参加者は,もう1人の参加者と競い合って,自分の利益が最大になるようにすることがこのゲームの目的であると答えるであろう。
実際にゲームを始めてみると,それぞれが予想していたゲームに対する態度が正しかったかどうかが,実感できることになる。ところが,協調者と競合者とでは,自分の抱いていた態度が肯定される度合いは大きく異なる。協調者の場合,もう一方も協調者の時は,互いにとって利益が上がる協調的な手が取り続けられることになる。しかし,競合者と組にされたときには,自分の被害を避けるためにも,競合的な手をとらざるをえなくなる。一方,競合者の場合には,常に破壊的な戦いになってしまう。もう一方も競合者の時は,すぐにゲームは血みどろの戦いとなる。そして,もう一方が協調者の時でも,こちら側の行為から,潜在的な協調者を自己防衛のための競合者に変えてしまうことになる。つまり,競合的な行為は,協調的な行為に比べ,相手側も同じ行為を取るようにさせやすいということである。そこで,競合者の持つ人間観「世界は利己主義者で満ちあふれている」は,ほとんど常に肯定されるのに対し,協調者の持つより曖昧な傾向は,肯定されにくいことになる。残念ながら,否定的な予言が当たってしまうことの方が多いのである。
T.ギロビッチ 守 一雄・守 秀子(訳) (1993). 人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか— 新曜社 pp.72-74
(Gilovich, T. (1991). How we know what isn’t so: The fallibility of human reason in everyday life. New York: Free Press.)
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