このような小社会では独特の「よい」と「悪い」が成立している。彼らは,自分たちなりの独自の「よい」「悪い」に,大きな自信と自負を持っている。それは,きわめて首尾一貫したものだ。
この倫理秩序に従えば,「よい」とは,「みんな」のノリにかなっている,と感じられることだ。
いじめは,そのときそのときの「みんな」の気持ちが動いて生じた「よい」ことだ。いじめは,われわれが「いま・ここ」でつながっているかぎり,おおいにやるべき「よい」行為である。いじめで人を死に追い込む者は,「自分たちなり」の秩序に従ったまでのことだ。
大勢への同調は「よい」。ノリがいいことは「よい」。周囲のノリにうまく調子を合わせるのは「よい」。ノリの中心にいる強者(身分が上の者)は「よい」。強者に対してすなおなのは「よい」。
「悪い」とは,規範の準拠点としてのみんなのノリの側から「浮いている」とかムカツクといったふうに位置づけられることだ。自分達のノリを外した,あるいは踏みにじったと感じられ,「みんな」の反感と憎しみの対象になるといったことが,「悪い」ことである。
「みんなから浮いて」いる者は「悪い」。「みんな」と同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを生きない者は「悪い」。「みんなから浮いて」いるにもかかわらず自信を持っている者は,とても「悪い」。弱者(身分が下の者)が身の程知らずにも人並みの自尊感情を持つのは,ものすごく「悪い」。
それに比べれば,「結果として人が死んじゃうぐらいのこと」はそんなに「悪い」ことではない。他人を「自殺に追い込む」ことは,ときに拍手喝采に値する「善行」である。
内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.39-40
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