学校のクラスに朝から夕方まで囲い込むことは,酷い「友だち」に悩む者に対して,次の二者択一を迫ることを意味する。この苦しさは,友を選択できる自由な人間には理解しがたい苦しさである。
すなわち,ひとつめの選択肢は,過剰接触的対人世界にきずながまったく存在しない状態で数年間,毎日朝から夕方まで過ごす,というものだ。迫害してくる「友だち」とつきあうのをやめる。そして,数年間,朝から夕方まで,人間がベタベタ密集した狭い空間で,人との関係がまったく遮断された状態で生きる。声,表情,身振り,その他,さまざまなコミュニケーションが過密に共振し接触する狭い空間で,ひとりだけ,朝から夕方まで,石のように感覚遮断をしてうずくまっている状態を,少なくとも1年,長ければ数年間続けるのだ。これは,心理学の感覚遮断実験と同じぐらいの耐え難い状態だ。
もうひとつの選択肢は,ひどいことをする「友だち」に,魂の深いところからの精神的な売春とでもいうべき屈従をして,「仲良く」してもらえるように自分の「こころ」を変える,というものだ。つまり,過酷な集団生活を生き延びるために,自己が自己として生きることをあきらめ,魂を「友だち」に売り渡す。そして,残酷で薄情な「友だち」のきずなにしがみつく。
大部分の生徒は,後者を選ぶしかない。
学校に限らず,人間にとって閉鎖的な生活空間が残酷なのは,このような二者択一を強いるからだ。
また,しかとや悪口(ぐらいのこと!)で自殺する生徒がいるのは,このような生活空間で生きているからだ。市民的な空間で自由に友を選択して生きている人にとっては痛くもかゆくもないしかとや悪口が,狭い空間で心理的な距離をとる自由を奪われ,集団生活のなかで自分を見失った人には,地獄に突き落とされるような苦しみになる。
内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.178-179
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