学級や学校への囲い込みを廃止し,出会いに関する広い選択肢と十分なアクセス可能性を有する生活圏で,若い人たちが自由に交友関係を試行錯誤できるのであれば,「しかと」で他人を苦しませるということ自体が存在できなくなる。
たとえば,大学の教室では,だれかが「しかと」をしようとしても,それが行為として成立しない。何やら自分を苦しめたらしい疎遠なふるまいをする者には魅力を感じないので,他の友ともっと美しいつきあいをする,という単純明快な選択を行うだけですべてが解決する。「しかと」をしようとする者は,相手を苦しめるどころか,単純明快に「つきあってもらえなくなる」だけである。
市民的な自由が確保された生活環境であればあるほど,コミュニケーション操作で人を苦しめようとする者は,コミュニケーションがじわじわ効いて相手が被害者になる前に,単純明快につきあってもらえなくなる。被害者の候補は,邪悪な意志をただよわせた者たちから遠ざかり,より美しいスタイルの友人関係に親密さの重点を移していく。たったそれだけのことで,コミュニケーション操作系のいじめは効果を無化されてしまうのである。
内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.203
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