学校は本来,学習サポート・サービスを若い市民に提供する組織であり,勉強を教える場であるはずだ。しかし,分数やアルファベットも理解せずに中学を卒業する者がいても,多くの教員は(困ったことではあるにしても)学校(コスモス)が崩壊したとは感じない。しかし,学習サポート。サービスを受けるクライアント(生徒)が,当然の市民的自由として髪を染めたり,ピアスをしたり,制服を着なかったりすると、教員たちは、学校が汚され、壊されたような被害感と憎しみでいっぱいになり,それがとてつもない大罪であるかのように騒ぎ立てる。
学校は,制服を着せ,靴下の色や髪の長さまで強制し,運動場で「気をつけ」「前へならえ」をさせたりすることで,生徒を「生徒らしく」しようとする。その生徒の「生徒らしい」隷属のかたちによって,単なる学習サポート・サービスを提供するための組織の敷地に,聖なる「学校らしい」学校が顕現する。なぜ生徒が茶髪にしてはいけないのかというと,それは聖なる「学校らしさ」が壊れるからである。
このように考えると,「生活指導に熱心」な教員たちが示す,あたかも生徒の命よりもスカートの長さや靴下の色(「生徒らしさ」)のほうが大切であるかのような,あの大げさなムードが理解可能になる。学習サポート・サービスを提供する従業員(教員)が,「生徒らしく」ないと感じたサービスの受け手(生徒)に,被害感(恥辱感)を感じて「キレ」て,暴力をふるったり,怪我をさせたりする犯罪が後を絶たないことにも説明がつく。
内藤朝雄 (2009). いじめの構造:なぜ人が怪物になるのか 講談社 pp.206-207
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