「嘘が悪だ」と言うときに,その判断基準になっているのは善悪の物差しです。
一方,物差しはもう1つある。必要か不必要か,というものがそれです。前者は宗教的な物差し,後者は政治的な物差しだ,と言えます。
この2つの物差しは,まったく違う次元にあります。
ところが,日本人は両者を混同しているんですね。ほんとうは善には必要な善と不必要な善があるわけだし,悪にも必要な悪と不必要な悪があるわけです。宗教が根づいているキリスト教国などでは,ものごとを判断する際,この4つの価値観が基準になっています。
日本人はそれができないんですね。
つまり,必要なものは善であり,不必要なものは悪である,という価値観でものごとが判断されるんです。必要悪(不必要善)という価値観が抜けています。
いちばんいい例が暴力です。
暴力はいかなる場合も悪です。しかし,学級崩壊の危機に瀕死他養育現場では,体罰やむなしという状況があるかもしれません。あるいは,家庭でも拳固の一発が親子間の絆を深めるといったことがないとは言えません。悪である暴力も必要か,不必要かという原理で考えたら,ときには必要なこともあるんですね。じゃあ,必要性は認めよう。必要ならいいことのはず。体罰は善だ——ということになるのが日本人なんです。必要だけれども,悪だという発想ができないんですね。
その結果,体罰が野放しになってしまう。
ひろさちや (2010). 「ずぼら」人生論 三笠書房 pp.27-28
PR