一般に,こう言われるかもしれない。青年たちの社会的な遊びに関して,子供時代の遊びの本性について,かつて抱いたことのある偏見と類似した偏見は,そう容易に克服できるものではない,と。われわれはこのような行動を,無関係で,不必要で不合理なものとみなし,純粋の退行的で神経症的な意味をもつものとみなしてしまう。過去において子どもたち同士の自発的なゲームの研究より一人遊びの研究の方が好まれたために,前者が無視されてしまったのと同じように,今や,青年の徒党を組んだ行動による相互的な「結びつき」は,個々の青年に対するわれわれの関心のために適切に評価され損ってしまっている。それぞれの前社会 presociety における子どもたちや青年たちは,お互いに認め合った猶予期間を提供し合い,内外の危険(おとなの世界から向けられる危険を含む)に対する自由な実態を共同して支持しあっている。特定の青年の新たに獲得された能力が幼児的な葛藤にまき込まれるかどうかは,彼が属する徒党,仲間の中で自分に利用できる概念や参加への移行を,社会が一般にどんなふうに導くか,その形式的なやり方の如何によって,かなりの程度左右される。そしてこれらのすべては,個人と社会との間の暗黙の相互的契約にその基礎をおかねばらならい。
エリク・H・エリクソン 小此木啓吾(訳編) (1982). 「自我同一性」アイデンティティとライフサイクル 誠信書房 p.155
(Erikson, E.H. (1959).Identity and the Life Cycle. New York: International Universities Press.)
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