この万歳の勢いに目をつけたのが,吉本興業である。活動写真の台頭によって寄席経営が苦境に立たされていた吉本は,1926年前後(大正末期から昭和初期)にかけて,落語に代えて万歳を全面に押し出すことで突破口を開こうとする。この策はみごとに当たり,やがて万歳は寄席だけでなく伝統ある劇場にも進出するほどの人気を得るにいたる。そのあいだ,吉本興業は専属の万歳コンビの数を増やし,寄席出演者の勢力図は次第に万歳中心に塗り替えられていった。ただ万歳の手段を選ばないやり方は,すでに述べたように,ともすれば低級とみられ,世間の認知がなかなか得にくいというきらいがあった。そのイメージを一新し,サラリーマンを中心とした中流都市階層を新しく客層に取り込むために,吉本興業は,1933年(昭和8年)に「万歳」から「漫才」へと名称を改めることを決める。おりしもその同じ年,現在のしゃべくり漫才の原点となったエンタツ・アチャコの「早慶戦」が生まれる。彼らはサラリーマンが着るような普通の背広を舞台衣装にした最初のコンビでもあった。そのとき,吉本興業専属の漫才コンビは,すでに150組に達していたという。
太田省一 (2002). 社会は笑う:ボケとツッコミの人間関係 青弓社 pp.26-27
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