「天然ボケ」のボケは,意図されたものではない。普通のつもりでまじめにおこなった言動が,周囲からはボケと受け取られるのである。したがって,「天然ボケ」と名ざされた当人には,そこにウケようという気持ちはない。言い換えれば,とりあえずボケることによって自己主張するつもりはないのである。むしろそうした意図が感じられなければ感じられないほど,その人は,完璧な「天然ボケ」として周囲からより好意的に迎えられることになるだろう。
その意味で,「天然ボケ」は,内輪ウケの空間で,誰もが多かれ少なかれ意識せざるをえないはずの記号的な自己主張のまさに対極の存在である。だがそこにこそ,「天然ボケ」という非記号的存在が記号化される契機がある。
結局,「天然ボケ」とは,あらゆる言動がボケとして扱われる存在のことである。そうなるとき,「天然ボケ」の自己主張のなさが逆に強い自己主張になるという事態が起こる。本人にその気がなくとも,存在自体が周囲の注目を浴び,また言動が個性の表現として解釈されてしまう。ただしその存在の自己主張は,内輪ウケの空間を突き崩すようなものではない。その主張はすべてボケというかたちをとるからである。したがって「天然ボケ」は,内輪ウケの空間での一種理想的な存在様態という地位を占めることになる。「天然ボケ」は,ボケを創意工夫する労がなくとも「笑い」を引き起こすエリートなのである。
太田省一 (2002). 社会は笑う:ボケとツッコミの人間関係 青弓社 pp.95
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