ただし「天然ボケ」は,孤立した特異な存在なわけではない。「笑い」を誘うものとして,それは1つの理想型であって,そうなりきれない者は,自分の「そのまま」さをどこかで意識して演出しなければならない。それが「キャラ」と呼ばれるものの現在の「笑い」の空間での位相である。人は,とりわけ1990年代以降の「笑い」の空間で誰でも多かれ少なかれ「キャラ」になる。そのかたちは,「ボケキャラ」であったり「キレキャラ」であったり千差万別である。逆にいえば,どんなタイプの「キャラ」であるかというよりも,「キャラ」であること自体が大事なのである。
この場合「キャラ」は,先に述べたキャラクターの文法を一般化することで,結局キャラクターが希薄化したようなものといえるかもしれない。キャラクターが,「仲間」空間から浮いた位置にある個体をさすものだったのに対し,「キャラ」は,そのような浮いた特性を簡単に模倣できるようなものとしてパターン化した結果,「仲間」空間での軽い差異化の手段として根づいたものである。それは,タイプというほど個体の恒常的性質の表れを示すものではない。それは,その場その場でのポジションの引き受け方であり,したがって「キャラ」を意識するなかで,それになりきろうとするゲームを発動させることが重要なのである。
つまり「キャラ」とは,付け替え可能な覆面のようなものである。それは「素」が見えないくらい演じられるような場合もあれば,「素」が透けてみえるような場合もある。だがいずれの場合も含めて,「キャラ」のゲームは成立している。言い換えれば,そのゲームの最大の特徴は,「素」と演技をあえて峻別しないことである。個人の「素」をなんらかの配合で織り込むことが,このゲームで抜きん出るためのポイントである。人は誰もが,ある部分ある場面では「天然ボケ」でありうるのだ。
太田省一 (2002). 社会は笑う:ボケとツッコミの人間関係 青弓社 pp.164-165
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