神経の活動と心の体験を同一視しない方がよさそうだと感じとっていただくためには,オーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンが考えた思考実験をしていただくのがいい。
まず,色覚異常の神経科学者が色覚の研究をすると想像しよう(ジャクソンはこの神経科学者にメアリと名づけた)。彼女は650ナノメートルの波長の光が被験者の目に入ったときに何が起こるかを細かく調べる。視床の外側膝状体から視放線を通って一次視覚野に入る視覚神経の回路を丹念に跡づけ,次に側頭葉の視覚連合野の関連領域の活動を注意深く記録する。被験者はその結果を報告する。「赤が見えます!」—なるほど,大変けっこう。メアリはその刺激,つまりある波長の光を把握し,この刺激が活性化した脳の回路をていねいに追跡する。
さて,色覚異常の神経科学者メアリは,赤い色の感じについてほんとうに深く知ったといえるだろうか?たしかにインプットはわかったし,ニューロンの相互作用についても知った。だが調べて知った「赤い色」の知識とでは,劇的かつ質的な違いがあるのではないか?
知覚の生理的メカニズムを理解するのと知覚を意識的に体験するのとはまったく違うことだと,長々と説明する必要はないだろう。ここでは,意識的な体験とはあることの認識,あることへの関心とかかわり,中枢神経システムの知覚機構から検討のために提示される何かである,としておこう。この意識的な体験,赤の色覚という精神状態がどんなものかは,関連のニューロンの活動をつきとめただけでは表現しきれないし,まして完全な説明にはならない。神経科学者は痛みやうつ,不安と関連するニューロンをつきとめている。だがそれだけでは,そのニューロンの活動のうえにある精神的な体験を十分に説明できていない。ニューロンの状態は精神の状態ではない。心の存在は(これまでわかっているかぎりでは)物質的な脳に依存するが,しかし心は脳ではない。哲学者のコリン・マッギンは言った。「唯物論の問題は,いくら足し合わせても心になりえないものから心を組み立てようとすることだ」
ジェフリー・M・シュウォーツ 吉田利子(訳) (2004). 心が脳を変える サンマーク出版 pp.32-33
(Schwartz, J. M. (2002). The Mind and The Brain. New York: Harper Collins.)
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