中国と東南アジアが,ヒトが日本に移動するための「待機場」であったことが明らかになった。海面の水位が下がって日本と大陸本土とが陸続きであった2万年前から1万2000年前にかけてのある時期に,中央アジアからやってきた狩猟・採集民が北日本に移り住んだ。チベットと中国北部アルタイ山脈との間の地域から推定3000人の人びとが日本に歩いて辿り着き,縄文文化を発展させた。やがて海面の水位が上昇すると,日本はほぼ1万年間,大陸から切り離された。この間,東南アジアと中国南部の河流地域に住む人びとは農業を発達させていき,稲作農業は朝鮮半島にも広がり,そこで冷淡な気候に強い種が発達した。
およそ2300年前,東南アジアや朝鮮の住民と同じマーカーを持つ人びとが日本南部の島々に船で渡ってきた。これら農耕民族の移住者たちは,水稲文化を日本に持ち込み,水稲文化は日本全土に広まり,やがて日本は,これを自らのアイデンティティを示す証とみなすようになった。20世紀の日本はコメの市場開放に抵抗する理由として「日本で育ったコメは他に比類のない独自のものだ」と主張している[日本への稲作伝来は中国の長江流域からであるとの説が最近では有力だ]。
ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.49
PR