やがて世界の繊維製造業の王冠は,綿花の豊富な供給,相次ぐ発明,経営の優秀さのゆえに,アメリカの頭上へと移った。布地の政策が機械化されたのに続いて,仕立てと縫製も機械化されていった。1755年,イギリス政府は機械縫製に使う針に最初の特許を発行したが,アメリカで最初の縫製機械,いわゆるミシンが商品として売り出されたのは,それから100年後のことだ。ミシンを製造し商品化したのはアイザック・シンガーという実業家で,彼はエリアス・ハウという人物が開発した技術を利用した。ハウがこの技術に関する特許を出願したのは,1846年のことだ。
これより先にフランスでもミシンの特許をとろうという試みがなされたが,これは大きなトラブルを引き起こした。フランスでミシンを発明したのはバルテレミー・ティモニエという裁縫職人だったが,ミシンの出現で職を失うことを恐れた裁縫職人たちが彼の裁縫工場を襲撃し,火をつけたため,もう少しで命を落とすところだった。ティモニエはこの放火事件のあと一文無しになったが,アメリカの同業者たちは運がよく,ハウとシンガーは百万長者になった。19世紀の中頃までに,船乗りの制服の縫製がきっかけとなって,レディメード,つまり既製服の生産が始まった。
アメリカは,水力や石炭といったエネルギーの一次資源の利用の段階から,もっと効率のよい加工エネルギー,たとえば内燃エンジンや電力といったエネルギーの使用に移行していった。その結果,紡績や機織りの工程のスピードが加速された。だが,衣料製作の技術は基本的には同じ状態にとどまっていた。手回しや足でペダルを踏んで動かすミシンは複数のステッチ機能を備えた電動ミシンに取って代わられたが,衣服に仕立て上げる段階では,手で縫わなければならない部分も依然として多かった。したがって,衣料生産が現代の経済にあって最も労働集約度の高い,つまり労働力の雇用の大きな分野として発展してきたことは不思議ではない。そして衣料生産は開発途上国に,紡績からボタンつけにいたるさまざまな工程のそれぞれの段階で,世界的な供給チェーンに参加する機会を与えた。2000年に繊維・縫製部門での雇用労働力は,中国で600万人,インドでは150万人,アメリカでも80万人だった。
アメリカの繊維産業は安い労働力を求めて,絶えず南へ南へ——ニューイングランドからノースカロライナへ,さらにカリブ海諸島へ——と移動していった。そしてついには太平洋を渡り,貧しく飢えている途上国に根を下ろした。1時間当たりの労働はアメリカの10ドルに比べて中国やヴェトナムでは20セントと大きな差があった。しかもこれら低賃金の国の中でも,さらに奥地の目を覆いたくなるような極貧の地域では,賃金水準は一段と低かった。西側世界の人権団体や労働運動のグループ,それにシアトルでのデモ参加者は,「大企業主導のグローバリゼーションがアメリカのショッピングセンターを途上国のタコ部屋で生産された製品で埋め尽くしている」と非難した。
ナヤン・チャンダ 友田錫・滝上広水(訳) (2009). グローバリゼーション:人類5万年のドラマ(上) NTT出版 pp.162-163
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