ここで,法令は何のために存在するのかということを考えてみましょう。
図2で示しているように,法令の背後には必ず何らかの社会的な要請があり,その要請を実現するために法令が定められているはずです。だからこそ,本来であれば企業や個人が法令を遵守することが,社会的要請に応えることにつながるのです。
ところが,日本の場合,法令と社会的要請との間でしばしば乖離・ズレが生じます。ズレが生じているのに,企業が法令規則の方ばかり見て,その背後にどんな社会的要請があるかということを考えないで対応すると,法令は遵守しているけれども社会的要請には反しているということが生じるわけです。
その典型的な例が,JR福知山線の脱線事故の際に,被害者の家族が医療機関に肉親の安否を問い合わせたのに対して,医療機関側が個人情報保護法を楯にとって回答を拒絶したという問題です。
個人情報保護法が何のためにあるのかということを考えてみると,その背景には近年の急速な情報化社会の進展があります。今の社会では,情報は大変な価値があります。それを適切に使えば個人に非常に大きなメリットをもたらしますが,逆に,個人に関する情報が勝手に他人に転用されたり流用されたりすると本人にとんでもない損害を与える恐れがあります。ですから,個人情報を大切にし,十分に活用するために,情報が悪用されることを防止する必要があります。そこで,個人情報を取り扱う事業者に情報の管理や保護を求めている,それが個人情報保護法です。
あの脱線事故の際,電車が折り重なってマンションに突っ込んでいる悲惨な状況をテレビで目の当たりにして,自分の肉親が電車の中に閉じ込められているのではないか,病院に担ぎ込まれて苦しんでいるのではないかと心配する家族にとって,肉親の安否情報こそが,あらゆる個人情報の中でも,最も重要で大切なものではないかと思います。ですから,自己後の肉親の安否問い合わせに対して,迅速に,適格に情報を伝えてあげることこそが,個人情報保護法の背後にある社会的要請に応えることだったのです。
しかし,あのとき多くの医療機関の担当者の目の前には,「個人情報保護法マニュアル」があったのでしょう。そこには,個人情報に当たる医療情報は他人には回答してはいけないと書いてあったので,その通りに対応し回答を拒絶したのです。担当者には,「法令遵守」ということばかりが頭にあって,法の背後にある社会的要請など見えていなかったのです。
郷原信郎 (2007). 「法令遵守」が日本を滅ぼす 新潮社 pp.101-103
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