結局のところ,多くの人が「とりあえず裁判員裁判を始めてみて,ダメならやめればよい」という諦めに近い考え方で,流れに身を任せています。
それは,かつての太平洋戦争開戦時の日本の状況に似ているように私には見えます。当時,客観状況がわかっている人で,日本が超大国アメリカと戦争をして勝てると考える人間はほとんどいなかったでしょう。しかし,開戦前の日本では,それを口にするのははばかられました。そして,日本はアメリカとの戦争に突入。その後,戦局が悪化しても,大本営はそのことを国民にまったく知らせようとはせず,泥沼の敗戦に突き進んでいきました。
裁判員制度も,一度導入されたら,おそらく同じことが起きるでしょう。これほど,国じゅうで大騒ぎをして導入した制度を根本から見直すことは容易にはできません。それがあり得るとすれば,冤罪や,真犯人が罪を免れる「誤判」が相次いで表面化した場合ですが,裁判の誤りが動かぬ証拠によって客観的に明らかになることは稀です。また,現場の実務が混乱していても,一旦導入してしまった以上,内部から「制度自体に問題がある」とはなかなか言えるものではありません。
そして重要なことは,裁判員には,裁判員裁判の経過などについて一生守秘義務が課されるということです。裁判員裁判がどのように行われ,どのようにして結論が出されたかを裁判員自身が明らかにすることは禁止され,違反に対しては罰則が設けられています。結局,裁判員裁判の内実が裁判員経験者の口から明らかにされることはなく,司法関係者も内実を暴露できないまま,歪んだ裁判員制度の歴史が積み重ねられ,日本の刑事司法の根幹を蝕んでいくことになりかねません。
郷原信郎 (2009). 思考停止社会:「遵守」に蝕まれる日本 講談社 pp.89-91
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