子どもは早い時期に自分の攻撃的な行動を正当化する方法を覚える。弟や妹をぶって泣かせてしまうと「あっちが先だよ!だから,ぼくがぶったんだ!」とすぐに主張する。たいていの親はこの種の子どもっぽい自己正当化になど意味はないと思うし,実際,たいていは無意味な正当化である。しかし,弱い者いじめをする少年たち,従業員を虐待する雇用者,互いを傷つけ合う恋人たち,抵抗をやめた容疑者をいつまでも殴り続ける警官,マイノリティの人々を投獄し拷問にかける独裁者,一般市民に残酷な行為をおこなう兵士にも,同じメカニズムがはたらいているとわかれば,ぞっとしないだろうか。どの例でも悪循環が始まっている。攻撃的行為が自己正当化を生み,自己正当化がさらなる攻撃性につながる。ドストエフスキーはこうした過程を熟知していた。作家は,『カラマーゾフの兄弟』で,兄弟の父親で一筋縄ではいかない人物のフョードル・パヴロヴィッチにはこう述懐させる。「彼はかつて『なぜそれほどまでに憎むのか』と訊かれたことがあった。そこで彼はお得意のあつかましさで答えたものだ。『教えてやろうか。あいつはおれに何も悪いことなどしていない。なのに,おれはあいつを汚い手で,はめたんだ。だからあのときから,おれはあいつを憎むことにしたのさ』」
キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.40-41
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)
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