しかし,一度「私たち」というカテゴリーをつくってしまうと,否応なくほかの人々は「私たち以外」として感知される。「私たち」の中味は一瞬で入れ替え可能だ。私たちは良識ある中西部の人間で,あなたたちは見栄っ張りの海岸族だ。私たちは環境を考えた日本車のプリウスに乗っているけれど,あなたたちはガソリン食い虫だ。あるいは(野球シーズンに誰かふたりを適当に選べば)ボストン・レッドソックスのファン対ロサンゼルス・エンゼルスのファンでもいいだろう。「私たち的要素」は実験室でも1分でつくりだせる。意義汁のイギリスの学生を使って,アンリ・タジフェルらがある古典的な実験で実証したとおりである。タジフェルはいくつも点を打ったスライドを学生たちに見せ,点の数を当てさせる。彼は適当に学生を選んで,きみは「過大評価型」だね,きみは「過小評価型」だね,と指摘し,このあとで別の作業をさせる。この段階では,学生は「過大評価型」あるいは「過小評価型」とわかっている相手の学生に点数をつけることになっている。すると,各自は隔てられた場所で独り作業をしているにもかかわらず,ほとんど全員が「過大評価型」にしろ「過小評価型」にしろ自分と同じタイプのほうに高い点数をつけた。作業から解放されて外に出てくると,学生たちは互いに「きみはどっちだい?」と訊ね合い,同じタイプであると歓声をあげ,違うとわかるとなぜか残念そうにしていた。
キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.80
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)
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