記憶について語るときの比喩は,時代や技術に沿ったものが使われる。何世紀も前の哲学者は記憶を,そこに何かを押し付ければ必ず型が残るから柔らかな蝋板に喩えた。印刷機が登場すると,記憶とは図書館のようで,あとから読み直せるように出来事や事実を保管する場所だと人々は考えた(現在の私たちでも,ある程度の年齢の者はこのように考えていて,頭の中のごちゃごちゃになった引き出しに入っている情報を「並べ替えて整理する」といった言い方をする)。映画や録音技術が発明されると,記憶とは一種の撮影用カメラであり,何かが生まれる瞬間にスイッチを入れるとあとは自動的にすべてを録画していくものとなった。現在の私たちは,コンピュータの用語で記憶のことを考え,なかにはもっとRAMの容量が欲しいとぼやく人もいるようだが,ともかくも発生した現象のほとんどは「保存」されていると私たちは考える。脳はこうした記憶をすべて検索するとは限らないが,ともかく記憶はそこに存在し,私たちが取り出し,ポップコーンでも用意して鑑賞するのを待っているのである。
こうした比喩は人気があって,いかにもと思わせ,しかしながら間違っている。記憶とは,遺跡にでも眠る骨のように脳の何処かに埋もれているわけではないし,地面からカブでも引っこ抜くように掘り出せるわけでもなければ,彫り出したあとに完璧に保存できるわけでもない。私たちは自分に起きたことをすべて記憶するのではなく,突出したものだけを選択している(私たちが次々に何かを忘れていなかったら,先週の木曜の気温やバスで聞いたくだらないおしゃべり,かけたことのあるすべての電話番号などのゴミ情報で頭の中は満杯になりきちんとはたらかなくなってしまうはずだ)。さらに,記憶を再生する作業は,ファイルを取り出したりテープを再生するのとはまったく別物である。記憶とは,いくつかの脈絡のないフィルムの断片を見て,残りのシーンはどんなものかを想像するようなものだ。詩やジョークなど丸暗記で思い出せる情報もあるだろうが,複雑な情報を思い出すときに私たちは,それがひとつのストーリーになるように形づくっていく。
キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.97-99
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)
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