アメリカの文化には,あやまちイコール愚かさという連想があまりに根強いため,必ずしもすべての文化に同じような「あやまち恐怖症」があるわけではないとわかると誰もが驚いてしまう。1970年代,心理学者のハロルド・スティーヴンソンとジェームズ・スティグラーは,アジアとアメリカの児童で算数の成績に差があるのを興味深く思った。5年生になるころには,日本で最下位の成績の子どもたちが,アメリカで最上位だった子どもたちより良い成績をとるようになっていたのだ。理由を知ろうと,ふたりは10年間をかけてアメリカ,中国,日本の小学校の児童を比較した。ヒントがつかめたのは,日本の小学生が黒板に立方体を描く問題で苦心惨憺する姿を見たときだった。その男の子は45分間の授業中,ずっとこの問題に取り組み,間違った図を描いては消し描いては消ししており,見ていると心配でかわいそうになるほどだった。しかし本人はいたって平気で,ふたりの研究者はなぜ自分たちのほうがおろおろしているのだろうと不思議だった。「アメリカの文化はあやまちに対して,心理的に高い代償を支払わせるのです」とスティグラーは当時を思い出す。「しかし日本ではどうもそうではないようでした。この国では,失敗やミス,思い違いはすべて,学習過程の自然な一部とされているのです」(日本の少年は最後には図が描け,クラスじゅうから歓声があがった)。またアメリカの親や教師の児童は,日本や中国よりもはるかに,算数の才能は生まれつきだと考えていることもわかった。対照的にアジアでは,算数の成績がよいのは,ほかの科目での成果と同様に,ひたすら努力した結果だと考えられている。もちろんその途中で間違うこともあるだろうが,そうやって覚え,向上していくのであり,間違いはけっして愚鈍さを意味しない。
キャロル・タヴリス&エリオット・アロンソン 戸根由紀恵(訳) (2009). なぜあの人はあやまちを認めないのか:言い訳と自己正当化の心理学 河出書房新社 pp.305-306
(Tavris, C. & Aronson, E. (2007). Mistakes Were Made (but not by me): Why We Justify Foolish Beliefs, Bad Decisions, and Hurtful Acts. Boston: Houghton Mifflin Harcourt.)
PR