宮廷貴族は移り気ですぐに別の流行を追いはじめるが,宮廷のチューリップ・ブームは,パリの社交界に重要な影響を及ぼす。優雅で趣味のよいパリの社交界のことは,17世紀のヨーロッパ中に知れわたっていて,パリの流行はすぐに他の地で真似されたのである。フランスが次の流行に乗り移ってからも,チューリップはヨーロッパの辺鄙な土地でもてはやされていた。西はアイルランドから東はリトアニアの森を訪ねた旅人が,パリで10年も20年も昔に流行したスタイルで着飾っている婦人を見つけたものである。ルイ13世の宮廷でほんの数年沸き上がったチューリップ・ブームのおかげで,チューリップはその後も数十年にわたって,ヨーロッパ中で寵愛された。
まず最初にフランス宮廷の流行を真似たのはフランス国民であった。パリでチューリップが流行しはじめてまもなく,小規模のチューリップ・ブームが北フランスに広まった。のちにオランダで起きるブームの予告編のようなこの状況を伝える当時の記録は残されていない。だが,当時の記録を信用するなら,このチューリップ・ブームは相当なものであったようである。
1608年にはある粉屋が,所有していた粉ひき場をたった1株のメーレ・ブリュン(Mere Brune)という名の園芸品種と交換したという。またある熱狂的愛好家は,1株の交配品種,ブラスリー(Brasserie ビール醸造所の意)を手に入れるために3万フラン相当の醸造所を手放したという。また別の説によると,ある花嫁の持参金は,父親が栽培し,結婚を祝って「娘の結婚」と名づけた新品種のローゼン系チューリップ1株だけであったという(もっとも新郎は,その贈り物に歓喜した)。どの話も出所は疑わしいが,またたく間にチューリップ・ブームがヨーロッパ全土に広まっていったのはたしかであろう。そして1620年には,どこよりもオランダ共和国でもてはやされ,ユリやカーネーションなどのライバルを凌駕していった。
マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.108-109
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