17世紀,オランダの職人は低賃金による長時間労働を強いられていた。1日の仕事を終えて帰る場所は,わずかな家具のおかれた狭苦しい1間か2間の家であり,しかも住宅不足のせいで家賃は高かった。食事といっても粗末なもので,来る日も来る日も同じメニューの繰り返しである。そんな環境に封じ込められていた人びとにとって,球根を植えてその成長をのんびり見守るだけで豊かな暮らしが保証されるなど,夢のような話であった。
職人たちは夜明け前から日没後まで働いた。1630年には,早朝から作業所が発する騒音に対して,織物加工業者は午前2時,帽子屋は午前4時より前に作業を開始することを禁じる条例が,いくつかの街で制定されたほどである。もっともきびしい取り締まりを受けたのが鍛冶屋で,鍛冶打ちの音が大きいからと,夜明けの鐘が鳴るまで作業を始めてはならないと命じられた。
労働者の激しく長い労働を支えていたのは,チーズや酢漬けニシンの軽食と,1日でもっとも主要な食事であった昼食のみであった。昼食として常食されたのは,国民食ともいえるフットスポットという肉のシチューであった。
羊の細切れ肉とパースニップ,酢,プルーンなどを脂で煮たこのシチューは,最低3時間は弱火でじっくり煮込む料理であるが,生活苦と過剰労働のもとでは1時間ほどで火から下ろして供されていたため,その味は,あるフランス人の感想を借りていうと,「塩かナツメグが大量に入った水に羊の膵臓と肉の細切れが混じっただけの,肉の風味などまるでない代物」であった。
かくもまずいフットスポットでさえ,労働者家族ではめったに食べられないご馳走であった。肉を買えない者は,野菜とべとべとした黒ライ麦パン(当時は重量が5キロもあるかたまりで売られていた)が常食であった。貧しい家計では,一塊のパンが家族全員の1日分の食料であった。もっとも食べ物に不自由しなくても,オランダ人の食習慣はきわめて保守的であった。オランダ人にとっての魚介類はニシンかタラのみで,ムール貝は市場に出回っても最低の食べ物として軽蔑されていた。ある大邸宅に仕える召使いは,食事に鮭が出たことに気を悪くして,週に2回以上は鮭を出さないと雇い主に約束させたほどだった。
マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.147-148
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