17世紀を通じて,無能であったり常軌を逸したスルタンばかりが続出して,オスマン帝国はその存続が脅かされるほどであったが,それには理由があった。16世紀初頭の壮麗王スレイマン1世の治世時から,イスタンブールにおける王室の状況はずいぶん変わっていた。トルコ王室の活力は徐々に消滅して,昔どおりの皇位継承のやり方を放棄せざるをえなくなった。コソボを従属国とした14世紀末のバヤジットの時代から,スルタンの座は,最初にそれを手に入れた王子のものとなることに決まっており,バヤジットの血にまみれた例にならって,新スルタンたちはその治世を始めるに当たって,兄弟たちがのちに反逆の計画を立てるのを防ぐために1人残さず死刑に処した。
征服王メフメット2世の支配下で,この残虐な伝統は実際に法律として定められ,メフメット3世が1595年に即位したときには,何人かの乳飲み子も含めて19人もの兄弟がハレムから引きずり出され,天国で歓迎されるようにとまず割礼を施されてから,絹のハンカチで絞殺された。この残虐な伝統から,のちに残酷無慈悲で知られるようになる大胆不敵で果断なスルタンが何人も生み出されるのである。
しかし,1607年,当時のスルタン,アフメット1世は,自分の愛する子供の1人が他の子供たちを皆殺しにするという考えに耐えられなくなった。そこで兄弟殺しを法的に薦める古い政策の代わりに,スルタン以外の兄弟を檻(カフェス)と呼ばれるハレム内の小さな一角に閉じ込める方策に切り替えた。
カフェスは,宮殿の第4の中庭の西に位置しているいくつかの部屋から成っており,そこからはイチジク園やパラダイスガーデン,そしてボスポラス海峡の絶景が見わたせた。王子たちには,話し相手の宦官と性的慰めのための不妊の妾が与えられ,変わることのない日々の退屈さと,処刑される可能性が皆無ではないという不安感の入り交じる生活を送っていた。帝国の支配者が死ぬと,その長男が,生まれてからずっと閉じ込められていたカフェスから出され,新しいスルタンとして迎えられた。そして王室の血筋を引く他の男たちは,刺繍や象牙の指輪製作など,許可されていた数少ない気晴らしと,絶望の入り交じった静かな生活に戻るのである。
マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.277-279
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