ジュージラン・ブームは,その数年後に中国政府がいくつかの小規模な経済改革を許可した際に本格的に始まった。そのときの長春の状態は,1630年代のオランダとよく似ていた。経済活動は奨励され,金儲けをしようという意気込みとエネルギーがあったにもかかわらず,剰余金を投資する機会があまりにも少なすぎた。そのような状況の中で,ジュージランの栽培家たちは,近隣地域からの花の需要が増えて値が(当然のごとく)上がってくるのに乗じて,ジュージラン球根の投機にも乗り出したのである。
1981年から1982年には,ジュージランの球根は100元,約15ポンドで売買されていた。中国国民の年収が低いことを考慮に入れると,これは相当な金額である。しかし,1985年には,もっとも人気の高い品種の球根が20万元,約3万ポンドという天文学的な値段で取引された。この値段は,オランダでのチューリップ・バブルの最高時において支払われた金額をも圧倒するものである。センペル・アウグストゥスの最高値が1株5千ギルダーから1万ギルダーほどで,それは裕福な商人の収入の4倍から8倍だったのに比べ,ジュージランの最高値は,中国における大学卒の平均年間収入の300倍以上に相当した。まさに驚くべき金額であった
これらの事実を考えると,ジュージラン・バブルが他の花のブームに比べて短かったこともうなずける。最終的に,このバブルは1985年に終焉を迎えた。球根に投機するなど狂気の沙汰だと説いた批判的な新聞記事がいくつか出たため,この新しい業界に対する信用が落ちたのが原因であろう。球根市場はパニックに襲われて,早く球根を手放そうとして焦る業者たちであふれかえり,価格は急落した。
この中国でのブームの頂点がチューリップ時代の頂点を超えたのと同様に,暴落の度合いもチューリップ時代よりもひどかった。最終的にジュージラン市場が安定したときには,その価格はなんと99パーセントも暴落していたのである。
マイク・ダッシュ 明石三世(訳) (2000). チューリップ・バブル:人間を狂わせた花の物語 文藝春秋 pp.310-311
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