この手の人は,論理的な矛盾は問題にしない。この手法では,論理的な整合性よりも,そこをぼんやりさせていることこそ望ましい。読み手の心の中に印象を作るのであって,説得するのではない。これが無意識下への刷り込み作業である。これが,サブリミナル手法である。この手の文章を書かせると,ライアル・ワトソンはダーウィンやグールドと同じようにうまい。どうも,うまい文章を作る欧米人は,同じ手法を使うと見える。
だが,人類の海中起源説は,裸の哺乳類を網羅した時点で論破されている。つまり,獣の裸化は,水辺や水中生活の哺乳類だけに限ったことではないという事実である。海中起源説の論者は,意識して水中,海中,水辺だけに話を制限しているが,先に裸の哺乳類の例を挙げつくしたときにはっきりしたように,裸の哺乳類は地中生活者にも,空中生活者にも,そして陸上生活者にもいる。
事実の完全な列挙や網羅は,事実の枠組みを教えてくれる。私はずっと,日本の教養に不足しているのは博物館であると言ってきた。それは博物館が,この機能を,実物標本の収集によって,果たすべきだからである。この意見がまともに取り上げられたためしはないが,事実がここからここまでの枠組みの中にあり,それ以外にはあり得ないという,生命にとっての決定的な知識を与えてくれるのは,完全な網羅的記載方法である。
その視点からは,ワトソンもモーガンも失格である。
島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.139-140
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