アフリカ高地でしか裸の人間は成立しなかったと,私は考えている。アフリカの低地にはマラリアがある。それは,現代でもひとつの村を全滅させる。だから,低地で裸の人間が生まれても,生き残る確率は非常に少なかったはずだ。しかし,高地ではマラリア蚊は少ない。
20万年あるいは30万年前の現代人の始まりから,ヨーロッパへの進出までの長い時間について考えると,アフリカ高地からの進出がなんらかの理由で難しかったのだと,考えないわけにはいかない。同じ時期のアフリカに生きていたホモ・エレクトゥスの子孫たちやヨーロッパから近東にいたネアンデルタールたちとの生活圏を巡る争いには,現代人の祖先は耐えることができただろう。
だが,マラリア蚊などの昆虫が媒介する熱帯病のために,毛皮のない現代人がアフリカ低地へ,さらにはナイル川の低地帯をたどって中近東へ進出するのは,実質的に困難だっただろう。
もしも,彼らにとって大きな事件が起こらなかったら,まだしばらくはアフリカ高地だけの,たとえばヒヒ類の分布域の中に,エチオピア高原だけに分布するゲラダヒヒのように,現代人は孤立したままだったかもしれない。
しかし,7万年前に好機が訪れる。氷河期の到来である。ちょうどこの時に,衣類の起源があるのは,現代人がどこに向かったかを示している。つづく氷河期には,裸の人類はユーラシア大陸の寒帯にまで進出し,オーストラリアに至った。
現代人の生活跡は,最終氷河期の最盛期には永久凍土のもっとも厳しい気候条件だったロシアでも見られるが,ネアンデルタールの生活跡はそこにはまったくない。ネアンデルタールは毛皮をまとった野生動物で,南ヨーロッパ,地中海沿岸分布種だったので,この厳しい氷河期の大陸内部で生き抜くことができなかった。
逆説的だが,現代人は裸だったからこそ,この氷と雪に閉ざされた世界に生き抜くことができたのである。現代人はネアンデルタールと違って,密閉された家を造る能力も,家の中の温度調節をする能力もあったし,衣服を作る能力を持っていた。
しかし,裸の現代人がネアンデルタールと直接対決するまでには,さらに4万年の年月が必要だった。この時になってようやく,現代人は肉体的には自分たちより強力で,知能も劣らないネアンデルタールを圧倒できる技術を開発していたと考えるほうがいい。それが,オーリニャック文化だった。
島泰三 (2004). はだかの起源:不敵者は生きのびる 木楽舎 pp.251-253
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